ゼファニヤ書講解

4.ゼファニヤ書3章9-15節『貧しき者の救い』

ゼファニヤは、神に対する「反逆」、「汚れ」「暴力」に満ちたエルサレムの罪に対する神の審きを、3章1-5節において明らかにしました。それは政治、宗教いずれの指導者に対しても向けられた言葉でありました。

9-13節には、それらの悪しき指導者の下に、「苦しめられ、卑しめられた民」の救いが述べられています。その救いを実現するのは、歴史を支配したもう神です。ここには、ゼファニヤ書に特徴的な「残りの者」と「主の日」についての重要な神学的な観点からの救いが明らかにされています。

ゼファニヤは、召命の時におけるイザヤの体験(イザヤ6:5-7)を想起させる、約束の言葉をもって民の改心が与えられることを、明らかにしています。

「唇」をもって「主の名」を呼ぶことは、賛美や礼拝と関係しています。この象徴的行為が、諸国の民に与えられる真実の神礼拝であることがここで語られていますが、それは、主の民のための罪のゆるしを意味するものであります(イザヤ6:7)。ですから、9節のこれらの言葉は、元来、11節に結びついて述べられた言葉であると考えられます。

シオン(エルサレム)は、諸々の罪を犯したからと言って、もはや恥じる必要はありません。エルサレムに下された主の裁きは、「わが民に清い唇を与えるため」(9節)のものであることを、11節は明らかにしています。それは、エルサレムを苦しめたアッシリアと同じように、おごり高ぶり、不信仰を示したエルサレムの政治、司法、宗教の悪しき指導者を滅ぼし、謙らせるための主の審判でありました。ゼファニヤは、罪の本質がおごり高ぶりにあることをあることを明らかにすることによって、自分がイザヤの弟子であることを示します。

「謙り」は、イザヤが信仰と名づけたものと同じ内容を意味し、ゼファニヤは、その謙りの信仰を、「苦しめられ、卑しめられた民」である「貧しき者」の内に見ています。そして、主が「残りの者」として選ばれるのは、財産のない「苦しめられ、卑しめられた民」です。

それは、捕囚後の貧しい者であり、その者たちの中に真の敬虔を見る後代の編集者の目が重なり合って、これらの言葉が述べられています。ゼファニヤの後、ヨシヤ王による宗教改革が行われますが、その改革は、ヨシヤ王の死と共に挫折し、まさにゼファニヤが告発した指導者たちの不正や偽りによる腐敗堕落が、ヨシヤ以後の時代にも見られました。

「イスラエルの残りの者」(13節)は、主なる神に守られて、主の「聖なる山で」(11節)、おごり高ぶることなくへりくだって神を敬い、「不正を行わず、偽りを語らない」、「欺く舌」を持たない、心の清い人々であることが明らかにされています。2章3節では、「あるいは、身を守られるであろう」という可能性として述べられていたことが、ここでは、「彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない」、と全く確実なこととして約束されています。

それは、人間の態度に対する、神の報いとして語られているのではありません。どこまでも神の新しい創造的行為による救い、として与えられるものとして語られています。

9節は、「諸国の民」に与えられる救いとして語られていますが、「主の日」に与えられる救いとしての「残りの者」の選びは、究極において、イスラエルを超えて、諸国民にとっても、その日に与えられる審判は、滅びではなく、審判を通って与えられる救いであることを明らかにしています。

14,15節は、エルサレムの回復と散らされた者の帰還の喜びの歌です。この部分は後代における加筆であると見なされる箇所です。

ユダ、エルサレムに対してなされた審きが取り除かれるという信仰は、捕囚の悲惨な体験を経て、預言者たちの言葉に耳を傾け悔い改めた、民の神への立ち帰りの信仰から表れた確信です。

後代の編集者は、ゼファニヤやエレミヤが語った主の裁きの言葉を真摯に受け止めて、このような喜び、希望を語ることができたのです。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」との言葉は、今なお苦難の中にある民に向けられた言葉です。貧しさや飢餓にあえぎながら、主の民として「わたしを礼拝する者」として生きる真の敬神を表す言葉です。

ゼファニヤは、このような「主の日」の希望を後代の民に与えました。そして、「残りの者」については、イスラエルだけでなく諸国民をも含む広がりを与える救いへの信仰を生み出す希望を与えた預言者でありました。わたしたちも、ゼファニヤが示したこの希望の光の中で、主の前に貧しい者として生きることは、世にある様々な歪んだ支配や虐げにもかかわらず、確かな主の救いにつながる生き方であることを知ることができます。「主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」との言葉を聞ける幸いを覚えましょう。

旧約聖書講解