エレミヤ書講解

61.エレミヤ書45章1-5節『バルクへの言葉』

本章は、エレミヤの言葉を忠実に記録した書記バルクに対して与えられた主の言葉です。そしてこれは、エレミヤ書の中にただ一度だけ、エレミヤは神の言葉を個人に向けて語っています。それがこの箇所です。「ヨヤキムの第四年」は、前605年にあたります。それは、ネブカドネツァルがカルケミシュにおいてエジプトのファラオ・ネコに勝利して、世界の政治情勢に決定的な転機をもたらした年です。エレミヤの預言にとっても新たな出発点のとなった年です。この言葉は、バルクがエレミヤの書記役を務めることになった最初の年に与えられたとされています。その経緯は36章に詳しく記されています。バルクは、その時以来、エレミヤと行動を共にし、時には、エレミヤに代わって人々に主の言葉を語ることも行っています。そのため、バルクの身にも危険が迫って来ましたし、最後はエレミヤ同様に自分の意思に反してエジプトに連れて来られ、その上、エレミヤを唆している張本人であるという疑いさえかけられています(43:3)。このようにバルクは単にエレミヤの言葉を記録するだけの機械のような書記であったのではなく、あらゆる面でエレミヤの言葉に従い、自らをその言葉に委ねて、エレミヤと行動を共にした人物でありました。

その結果、エレミヤと同じように身を危険に曝しつつ、その苦難の日々を生きることになりました。それ故、バルクもまたエレミヤと同じ様な苦悩を体験し、その苦悩を表白したとしても不思議ではありません。

3節の言葉は、バルクの味わった深い嘆きを表しています。「ああ、災いだ。主は、わたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて呻き、安らぎを得ない」とバルクは語らねばならないほど疲れ果て、落胆していました。エレミヤもまた、「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い生涯を恥の中に終わらねばならないのか」(20:18)と、同じ落胆を表しています。それは、バビロンによって廃墟とされた町に残るユダの民やバビロンに捕囚とされた民の神への叫びに等しく、バルクの嘆きは決して彼一人のものであったわけでありません。神に選ばれた者が等しく経験する苦難を指し示すものでありました。しかし、バルクの嘆きの叫びはそうした苦難の中にある民の嘆きとやはり異なる面があります。むしろ彼の師であり預言者であったエレミヤの疲労感と落胆と共通しています。それは自分に課せられた重い責任に対する、苦しみ、抵抗の言葉でありました。

それゆえ、エレミヤはこの嘆きに対して叱責しなければなりませんでした。エレミヤに与えられたつとめも、バルクに与えられたつとめも主から与えられたものです。それゆえエレミヤは、神の立場をバルクに4,5節においてぶつけています。

エレミヤとバルクが生きている時代は、神がすべての者に災いを下そうとしている時代でありました。だから、誰一人その苦しみから逃れることが出来ないのだと語っているのであります。そして、この言葉を語っているエレミヤ自身、その召命の日に、

見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。(エレミヤ書1章10節)

という主の言葉を聞いています。神は自ら打ち建てた業を自ら砕こうとしておられるのです。これがまさに預言者エレミヤが召命の日に示された使信の内容でありました。自ら建てたものを壊すことは、辛く悲しいことです。神はそのことを預言者に語るよう告げていますが、その内奥に神の苦しみ耐え難い嘆きがあります。その過酷な任務を神はエレミヤに与えたのです。エレミヤは自らに与えられた言葉を語ることによって、耐え難い重荷に苦しんでいるバルクに、この事実を思い出させているのです。

「バルクよ、あなたは自分のために静かで快適な生活を求めるのか。神がご自分の業を、まさに打ち壊そうとしているこのときに」と。

しかし、あなたは苦しむけれども、「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」との約束がバルクに与えられています。バルクの嘆きに叱責を加えた言葉は、厳しい言葉でありましたが、そのことばは一つの救いとなったに違いありません。つまり、その厳しい言葉を通して、神はバルクにご自身の苦悩を分かち与えたのです。「わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く。全世界をこのようにする」という神の意思が示される歴史には、何の希望もない破壊しかないように見えます。そして、確かに、何も期待するなという神の言葉が続きます。

しかし、パウロは次のように述べています。

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10)

バルクの生涯は、あらゆる苦難に直面しながらも、破壊への道をエレミヤと共に歩み続けねばなりません。しかし、それにもかかわらず、バルクはそこで勝利の道を得、命が与えられる、と約束されています。しかも、その命とはバルクの望んでいたもの以上でした。「あなたがどこへ行っても」という言葉がそれを表わしています。その生涯には、緑の牧場や静かな川辺ばかりではなく、むしろその大半が暗い危険な谷で、足を滑らしそうな細い道を歩むようなものであるかもしれない。その歩みはただ滅亡に向かうもののように見えても、命は彼の下に留まるといわれています。バルクという名には、「祝福された者」あるいは「(神は)ほむべきかな」という意味があります。預言者エレミヤと共に最後まで忠実に歩むと、その重い、忍耐の生涯を通して、この名前の意味は明らかとなります。

エレミヤは、神から託されて、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」という神の御旨を告げねばならないのです。エレミヤは、ご自分の民のためになした業を自ら打ち壊そうとする神の業を告げるのがつとめであるからです。エレミヤには「自分に何か大きなことを期待する」ことは許されていない。それと同じように、エレミヤに仕えるバルクにも許されないのです。しかし、エレミヤに与えられた神の言葉は、破壊が最後のことばではなかった。この破壊のただ中にあって、神は新しいものを植え、新しい建物の礎石を築き、民に命を与えようとしているのです。

「あるいは建て、植えるために」とエレミヤに与えられたこの約束は、エレミヤに仕えるバルクにも与えられた約束でもあります。そしてバルクには、「ただ、あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」との約束まで与えられています。そこに、第一義的には、神が預言者エレミヤに与えた言葉を残すために、バルクの命を守ろうとされた神の意志の表れを見ることができますが、この約束にはそれ以上のことが語られています。

即ち、この約束はひとりバルクだけに与えられたものではなく、神に選ばれ神のことばを語ることに生涯を賭けた預言者エレミヤにも、また、その預言を聞きその言葉に委ねて、信仰をもって神の裁きに身を委ね、祖国を離れて不安の中で生きなければならない民の上にも、等しく与えられた、深い慰めとして聞くことができます。

前605年といえば、この預言は、バルクがエレミヤと一緒にエジプトに連れてこられるより20年前のものであることを示しています。この預言が44章の後におかれている意味は何でしょうか。20年間、バルクは数々の危機をくぐり抜け、なお生き長らえています。その事自体が、神のことばの真実を証しするものであることを、物語っています。エレミヤ書は、エレミヤの最後の預言を44章に記していますが、その後、エレミヤとバルクがどうなったのか何一つ聖書は記していません。何も記されないということは、この語られない二人のそれ以後の問題を、読者には信仰の目と耳で判断することが求められているということを意味します。私たちには、神のことばを語り、自ら語ったその言葉に委ねて生きた忠実な二人が、「命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」との主の約束の下に生きることを許されたと、確信することができるのであります。

もう一つ見落とせない大切なことがあります。エレミヤの預言が44章で終わり、46章から諸国民への預言が始まります。その間にあって、いわばエレミヤの召命から40年あまりにわたる長い預言活動の報告の最後に置かれたこの章に、エレミヤの召命記事に対応する言葉が含まれています。それは、「わたしは建てたものを破壊し、植えたものを抜く」という言葉です。この言葉は、1章10節の「見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」という言葉を思い起こさせるものであります。5節の「あなたの命だけは、どこへ行っても守り、あなたに与える」という言葉は、1章7、8節、特に、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」という言葉と一致します。その意味で45章は、1章のプロローグに対するエピローグと見ることが出来ます。

エレミヤは自らの意思にしたがったのではなく、神の選びによって神の言葉に奉仕する道を歩むことになった預言者です。その人生は苦難に満ち、険しく厳しいものでありました。バルクの場合も同様でありました。しかし、二人を選んだ神の守りは、初めから終わりに至るまで、ほんの一瞬たりとも離れることはないのです。それはまた、神の言葉に聞き、神の言葉に委ねて生きる民すべてに神が約束してくださる慰めでもあるのです。

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