詩編講解

70.詩編142篇『わたしの分となってくださる方』

この詩篇は、ひとりの見捨てられた人の深い嘆きの祈りです。この詩人は迫害者の手によって牢獄に入れられ、その友さえ離れ去って「命を助けてくれる人もない」深い絶望の淵に追いやられました。しかし、そのような時にも、神は彼の唯一の避けどころであり続けました。彼はそのような絶望の淵にあっても、かつて「避けどころである」と告白した主に信頼して、震える手で、しかし子供らしい信頼の心を持って、残された唯一の支えなる神に向かって手を伸ばして祈っています。彼は理解者を神にのみ見出し、目をそらさず祈っています。その意味で、この詩篇は嘆きの祈りであると同時に神への揺るぎ無い信頼を告白する祈りでもありました。彼は、神への信頼によって、絶望の中にあっても未来に希望を見出すことが出来ました。そして、彼はその希望を神にのみ託し「助け出してください」と祈ります。彼が助け出されたいのは、命が惜しいからでありません。「御名に感謝する」礼拝を捧げたいからであります。同じ主に従う同胞の民が自分を見て、恵みをもって取り扱われる神を賛美し、自分を取り囲む姿を見たいからであります。

その祈りを通して、彼は、主の民のあり方をわたしたちに示してくれています。その嘆きの叫びの一つ一つに現される彼の神への揺るぎ無い信仰を見ていきましょう。

彼は、追跡を受けて不安におののく彼の魂は神に向かって大声を上げて叫びました(2節)。追跡される苦しさ、運命の不確かさ、孤独が、この悩める人の魂に重くのしかかり、万策尽きて彼はうめいています。

このような人間にとってその苦しみを存分に訴えることのできる相手が必要です。人は共感できる魂を得、その人にその苦しみを聞いてもらうことができるなら、幾分か気持ちが楽になります。しかし、彼にはその苦しみを訴える人間がいません。彼がもし神を信頼し神と対話することを知らない人間であれば、その苦しみから立ち上がることはできなかったでしょう。

けれども、幸いなことに、彼は神を知る人間でありました。神への信頼をそのような苦しみの時にも失わない人間でありました。彼は神にその嘆きを委ねます(3節)。すべてのものに見捨てられた時も、彼は自分の声を聞いてくださる唯一の方を知り、その方と対話できることを知っていましたので、彼はすでに耐え切れないほどの圧力からある程度解放されていました。

不安な夜に母親の懐に飛び込んで泣きじゃくり憩いを見出す子供のように、彼は神の懐に飛び込んで、慰めを見出しています。そして、4節のように告白しているのであります。彼は神がどのような方かも知らずに信頼を寄せているのでありません。自分の霊がなえ果てていることを知り、どのような道を行こうとしているのかを知る全知の神を知り、その神に信頼を寄せて委ねているのです。彼はこのような神と生ける交わりを持っています。神に守られ、神に理解されていることを知るだけでありません。彼は自分が神に担われていることを知っています。

預言者イザヤは偶像の神は人を助け出すことはできないが、ヤーウェはそうでないことを、イザヤ書46章3-4節において語っています。

この詩編の詩人の信仰の目は、そのような神との生ける交わりにある自分を見つめていました。この神信頼の土台から、詩人は自分の全体状況を見ていました。

しかし、現実は敵対者たちが悪辣な策略をめぐらし、罪なき彼を中傷に満ちた告訴の対象として裁判に引っ張り出すような状況を作り出していました。そして、彼には自分を受け入れてくれる人は一人もなく、彼の友さえ、彼が捕らわれの身になったことを聞き、尋ねることができなくなりました。もはや命を助けようとするものを一人も持たない絶望の叫びが5節に見られます。その絶望の中で彼は、主に向かい「目を注いでご覧ください」と助けを求めて、叫び声を上げています。
しかし、彼がこのように神に助けを求めて叫ぶのは、これが初めてではありませんでした。彼は神を常に唯一の避けどころとしてきました。一度ならず彼は祈りにおいて神に信仰を告白していました。

6節のように告白する詩人は、すべての者から見捨てられてからは、神と神の約束のみが彼に割り当てられる唯一のものでありました。この望みによって彼は神にしがみつきます。

「わたしの叫びに耳を傾けてください」(7節)との祈りから彼の願いが始まります。詩人は最後の力を振り絞って神にすがりつき、自分の無力を示しつつ、神の憐れみを得ようとより頼みます。神のみが理解してくださると信じるからです。自分の力では自分より強い強力な敵に立ち向かうことはできません。しかし、人間の力より偉大なのは神の力です。彼はその力に信頼しつつその助けを求めているのであります。

「わたしの魂を枷から引き出してください」(8節)と、その願いを心から神に向かって叫び求めています。しかし、彼の願いは単に命の危険から守られるようにというものではありません。「御名に感謝することができますように」という祈りこそが彼の一番の願いでありました。もう一度民と共に神を礼拝し、御名に向かって感謝を表したい、これが彼の究極の願いでありました。彼は自分が助かることが望みではない。神を礼拝し御名に感謝すること、そして、神が自分に表してくださる恵みを見て、仲間が取り囲んで彼と共に神をほめたたえることを祈り願ったのであります。「主に従う人々がわたしを冠としますように」(8節)との祈りは、そのことを願う祈りでありました。

礼拝においては、神と神への告白とが最も重要であります。個人の運命は神との内的な繋がりにおいて孤独から解放され、信仰と生活の交わりの中へと入れられるのであります。その交わりによって信仰生活は互いに豊かにし合うことができるのであります。

見離されたときの孤独と信仰における交わりとは、両極にあります。詩人は苦悶しつつ、神への信頼を固持し、この両極の緊張を解く方向へと向かっています。しかし、礼拝の交わりに対する神とその共同体への燃える熱情によってのみ克服しうるものであることを彼は信仰の目で見つめ続けています。彼の深い祈りは、そこからのみ理解することができるのであります。

旧約聖書講解