詩編講解

56.詩編116編『感謝の歌』

詩編116篇は、生命の危機から救われたことを神に感謝する感謝の歌であります。この詩篇の作者は、自分の願いが聞かれたので(6-7、16節)、礼拝において(5、14、18節)、会衆の前でこの感謝の歌を朗誦しているのであります。その後で、彼は感謝の供え物をささげているのであります(17節)。生命の危機から救われたことを、彼は神に感謝せずにはおれないのであります。しかし、彼の苦難の原因が何であったのか、それは、病気であったのか、迫害であったのかこの歌の内容からはわかりません。

16節の「縄目」という言葉を文字どおりに解するなら、この感謝の歌は、主の判決によって、牢獄の鎖から解き放たれたことに対する感謝の歌となります。いずれにせよ、彼は、死の不安とすべての人間を襲う絶望的な苦悩からくる深いうめきの中でも神への信仰を失わずに(10-11節)、神の愛の中に平安を見出し、静かな心の幸せにたどり着くことができました。そして、彼は感謝をささげることを許された祝福に、全く身を委ねるのであります。

この詩篇は、「わたしは主を愛する」という、主への愛の告白で始まっています。神との心の交わりが祈り手を祝福に満たし、幸福感で満たしているのであります。この詩人と神との交わりは、神が彼の祈りを聞かれたことを拠り所にして深められているのであります。人間の神への愛は、神が人間を愛されたことに対する反応・応答として惹き起こされるという彼の信仰の根底にある理解から生み出されるものであります。それゆえ、神への愛と感謝とは分かちがたく互いに溶け合っているのであります。

だから、彼は、激しい苦しみに襲われているときも、不安で、人の欺きを覚悟しなければならない時も、「わたしは信じる」と言って主への信頼を失いませんでした。

しかし、その彼を貴び愛と憐れみを示された主の深い計らいを知った時、彼はますます深く、主は御前に誠実な信仰者として生きようとする者に憐れみ深く、その祈りの声に耳を傾けてくださるお方であることを知る者とされました。

彼はその様に深く主に捉えられていることを知る者とされていますので、力強く、「生涯、わたしは主を呼ぼう」(2節)という告白をすることができました。

3-6節には、彼の嘆き、苦悩が如何に深いものであるかが告白されています。
しかし彼は、主の憐れみを生き生きとした現実として確信していますので、決してその告白は悲観的なものとならず、希望に満ちた祈りに変えられているのであります。

彼の魂は、今や神に帰ることが許され、神のもとに憩いを与えられているのであります。この祈り手にとって、神の家は、故郷のように守りが与えられ、その魂に安らぎを感じる場となっているのであります。民と共に礼拝をささげ、神に近づくことは、魂の平安の源となるのであります。

神は、彼の生命を死の深淵から、彼の命を奪おうとする者の手から、取り戻されたのであります。このような体験を持つ彼にとって、命は常に神のみ顔の前にあり、神との交わりと主なる神の臨在とにおいて新しくされ豊かにされるものとして存在しているのであります。そしてまた、その命は、その命を与えたもう神への義務と、神の意志への服従の生活を歩むことを許されることを喜びとすることによって、再び新しく主なる神から贈られるものとして、意義あるものとして捉え直されているのであります。

激しい苦悩や不安な日々を過ごす中でさえ、神の真実の守りは変わりなくある、という彼の信仰はこれによってゆるぎないものとされているのであります。

そして、この信仰は恥じを受けることがありません。8―11節において、彼は神の恵みに圧倒されて、感謝の言葉を述べ、平安を与えられています。

そして、彼は主の庭に礼拝するために一緒に集まった会衆を前にして、神に祈り、誓いの供え物を捧げ、神の愛と真実を告白するために、「救いの杯」を高く上げ、主の御名を賛美しているのであります(13節)。

そして、彼は「主の慈しみに生きる人の死は主の目に値高い」(15節)と告白しています。主なる神にとって、主の慈しみを信頼して、敬虔に生きる者の命は、見放し見捨てるにはあまりに高価であるというのであります。

そして、16節において、彼はその服従の姿勢において神への愛に真実を貫くことを告白しているのであります。彼は、この言葉によって自分を新たに神の「家の僕」と見なしています。彼にとって感謝は、単に捧げ物を捧げるということにおいてあらわせば、それでおしまいなのではなく、神への全人格的な捧げ物とすべき事柄でありました。それは、神への愛によって生まれ、養われるものにほかなりません。なぜなら、それは、神ご自身が彼に愛を贈られたものであるからであります。

そして、わたしたちもまた、感謝は神への全人格的な捧げ物として表されるべきものであり続けます。なぜなら、神は愛する御子をさえ惜しまないでわたしたちを救うために与えるという破格の愛の贈り物を与えてくださっているからであります。この愛に育まれて、わたしたちは、神への愛を知り、神に感謝して生きる主の民としてあることを最高の喜びとするものとされているからであります。

旧約聖書講解