詩編講解

39.詩編73篇『滑りそうな信仰から』

この詩篇は、信仰の苦闘を歌っています。作者は、冒頭の二節において、神がいかなる方で、自分がその神の御前でどうであったかを、正直に告白しています。(1-2節)

この言葉の中に、彼が経験した試練の問題が告白されています。彼が足を滑らせそうになった試練の内容が、3-12節において告白されています。それは、神に逆らって生きている悪人が、何の災いも、苦しみも受けず、肥え太って、幸福に暮し、安泰であり、その心は悪だくみが溢れ、傲慢におごり昂ぶり、その高慢な舌は、「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」(11節)といって、平気で神を蔑ろにして生きていることに、この詩人の心は大きな躓きを覚えました。そこに、13-14節で告白されている詩人の経験と全く相容れない現実があったからです。

この詩人は、心を清く保ち、まっすぐに神を仰ぎ見て生きていたのに、毎日病に苦しみ、朝にはすっきりした心で迎えたいと祈りねがって目覚めようとするのに、朝ごとに懲らしめを受ける毎日が続く自分の現実と、神に逆らう者がそのような苦悩を少しも味あわず、富み、幸福で、健康で、享楽にふけり、安泰である現実の違いを見て、「わたしは驕る者をうらやんだ。」(3節)と告白しています。

この詩人の信仰の危機は、神に逆らう悪しき者たちの幸福に対する嫉妬から生まれました。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」と、高慢にうそぶいて、安穏と財をなしているのに、神の前に清く保って生きている自分が、病に打たれ朝ごとに懲らしめを受けている。このあまりにも大きな矛盾した現実のゆえに、その心は病の苦しみ以上に苦しみを感じ、「彼らのように語ろう」(15節)という誘惑に駆られました。彼らと同じように、あやうく「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」と、口走るところでした。

もし彼がそうしていたならば、この詩人もまた神を裏切る者、神に逆らう者となり、「見よ、あなたの子らの代を/裏切ることになっていたであろう。」と告白しています。彼はその誘惑に寸でのところで思いとどまることができました。

もし彼がこの問題を自分の思いの中で解決を図ろうとしていたならば、問題はいつまでも堂々巡りをしていたことでしょう。そこでその答えを見出すために神の聖所に訪れ、「彼らの行く末を見分けた」と17節に述べられています。

詩人は神の聖所で見たのは、肉の目で見た悪しき者の最期ではありません。彼が今まで見ていたのは、人を外見から判断する幸福感に根ざした見方でありました。しかし、詩人は神の聖所でものを見る視点の転換を迫られました。人生における終わりから見るようにその視点を変えられたとき、まことに富に満ち、幸福に満ちていると思われる悪しき者の道が実に滑りやすいものであることが見えてきました。彼は神の聖所で見た現実を18-19節のように述べています。

彼が見た終わりは、単に人の死を意味するものでありません。ましてや、死に方が述べられているのでもありません。それは人の現実を超えることのできる、またその超えた究極にある神の視点から見た、人間の行く末であります。その視点に立って見ると、滑りそうなのは、心を清く保っている自分ではなく、むしろ、「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」といって神を侮って生きている者の行く末でありました。

詩人は、この認識を与えられるまで、神は無力ではないが、現実に目を向けず眠っておられると見ていたのでしょうか。そうではありません。

20節のように彼が述べるのは、一つの比喩的表現です。

詩編53篇3節のように、神はいつもその御目を地上に注がれている方です。彼がこの言葉で述べようとしているのは、神を侮る者が、神をまるで眠っているか、現実を見ることの出来ない者の様に見て、神の現実を「夢」として侮り、自分たちこそ目覚めた人間であると、自分たちの求める幸福を偶像として持ち、それこそが夢でなく現実であると生きていることに対し、主なる神は、まるで目覚めた人のように、彼らの大切にしている偶像(それを彼らは失われない現実とみているが)を夢として侮られる、夢と現実の逆転であります。それは人の目と神の目から見る夢と現実の逆転の姿であります。

詩人が神を視点にして、神の側から物事を見る目を与えられた時に見たのは、悪しき者の道の滑りやすさだけではありません。自分の目の外見でしか判断できない愚かさ、知識の浅薄さでありました。

彼は自分の浅薄さに「はらわたの裂ける」ほど、恥じました。彼はこの神の視点を与えられ、以前の自分を振り返り、22節のように告白しているのであります。

詩人はこれまで、病に苦しむ自分は不幸だ、日ごと朝ごとに神の懲らしめを受けるばかりだと見なしていました。しかし、そのように見ていた彼が、実は、神が「わたしの右の手を取ってくださるので/常にわたしは御もとにとどまることができる。」(23節)という現実に目が開かれました。神はわたしを見捨てたのではなく、神の御計らいのもとで自分が導かれていることに気づかされたのであります(24節)。

詩人がその様な現実を見ることが出来たのは、もっぱら信仰においてであります。だからといって、彼には、それ以後苦悩がなくなったというのではありません。また、富や健康が与えられたというのでもありません。しかし、そのようなものに目を奪われず、神にある幸い、神において約束されている終わり、ゴールを、詩人は信仰の目で見ることが出来たのです。神を土台とした生の確かさ、未来の希望の現実を信仰において見たのです。それを26-27節のように告白しています。

このように取り扱われる神を信じている彼は、25節のようにも述べています。このような信仰の大切さを神の聖所で認識することが出来た詩人は、28節のように述べてこの詩篇の結びの言葉としています。わたしたちの信仰が滑りそうになるのは、人の現実に目が奪われ、外面でしか判断ができなくなる時であります。しかし、神の聖所において、神の約束する行く末から見る信仰を与えられる時、滑りそうなのは、神の示される道を歩む者、心を清く保つ者の道ではなく、神にさからう者の行く末であることが見えてきます。そして、いつも神に近くあることを幸いとする信仰こそ、大切な地上を生きる信仰であり、神の御業をことごとく語り伝えることが出来る者こそ幸いであることを彼は告げているのであり。あるいは病に苦しむ彼は、病床で人々に神を証しながらこの詩を歌ったのかもしれません。そうであるなら、彼はもはや神の聖所にたつことの出来ない身かもしれません。しかし、主の民と共に立ち、共に聞いた神の聖所での神の御言葉、それがこの詩人の信仰、現在の命を支えているということが出来ます。その中で、神の御業を伝える彼の信仰は、病床にある人々にとって大きな励ましとなるだけでなく、その様な道をたどらねばならないすべての人に大きな慰めを与える言葉が、ここにあります。

旧約聖書講解