詩編講解

72.詩編146篇『神を待ち望む』

幸福の問題を色んな視点から論じることができますが、この詩篇の言葉は、人の幸いは、その命を与えることのできる根源に立ち帰って考えるべき事を教えています。この詩人は、5節で、幸いなのは、「神を待ち望む人」であると述べています。なぜ神を待ち望むことが幸いなのか、その理由が6節に述べられています。神は、天地と海とその中にあるすべてのものを創造された方であると述べられています。また10節では、天地を造られた神が、主として、とこしえの王として、この世界を支配しておられることが歌われています。

この二つの節が教える真理には、深いものがあります。この私たちが生かされている世界は、それ自身の力で生まれたのでも、それ自身の原理で活動しているのでもありません。ただ世界を創造された神によって存在することができ、神が世界を支配しておられることが述べられています。それは物質的な存在だけでなく、世界の仕組みやわたしたちの心、思いも神が支配しておられるということです。その事実を私たちが認めようが、認めまいが、神はそのような方として永久に変わりなく、支配しておられるということです。

この神は、5節で歴史を生きたひとりの人物の名と結び付けて、「ヤコブの神」と言われています。ヤコブという人は、人を欺くような行為をしてでも、神様の祝福を得ようとして生きた人です。自分を祝福するまで神をさらせませんと言って神と格闘した人です。彼は、その戦いの記念として「イスラエル」という名を与えられました。ヤコブは人を欺くことも多くしましたが、欺かれることも経験しました。このような人物を、神は選びイスラエルの祖先とされたのです。

ですから「ヤコブの神」とこの詩篇の作者が、神の名を呼ぶ時、抽象的な観念の中にある神を思い描いているのではありません。ここでイメージされているのは、人を欺いたり、人に欺かれて生きているような人間の現実に介入し、支配し、祝福を与え、幸いを与える、生ける神です。そのように歴史を支配し、現実を変えることのできる「神を助けと頼み」とし、「神を待ち望む人」は幸いであると言われているのです。

では、神を待ち望んで生きるとは、どういう生き方のことをいうのでしょうか。それは、神を讃美して生きることであると1、2節において述べられています。ユダヤ人は、この詩篇を、毎日、朝の祈りの一部として用いたといわれています。

この詩篇を毎朝の祈りの言葉として、一日を始める人は、この詩篇で述べられている神の支配の現実を覚えて生きることになります。人生全体が神の守りの下に置かれていることを信じ、神に希望を置き、神から与えられる平安を喜んで生きることを意味します。

ハレルヤ。
わたしの魂よ、主を賛美せよ。
命のある限り、わたしは主を賛美し
長らえる限り
わたしの神にほめ歌をうたおう。(1,2節)

詩人はこのように呼びかけています。神は霊なる方ですので、肉の目でその存在と力を見ることができません。しかし、信仰の目で見て、神の名を呼び、神を讃美して生きるなら、神を身近に感じ、いつも神の恵みの支配に置かれている自分を発見することができます。

人は覚えたいもの、覚えるべきものを、身近なところに置き、その名を呼び大切にすることによって、自分がその大切なものと深く結びついて生きていることを具体的に知ることができます。

神を信じるということは、そのような具体的な事柄です。私たちが神を前に置くと言う言い方は、少し正確さにかける言い方かもしれません。神の前に私たち自身を置いて生きるという方が正確でしょう。

神を賛美することと、神を信頼し、神に委ねて生きることは一体の事です。
この世界を創造し、支配しておられる神は、私たちが、その御前にいきることを喜び、感謝し、正しく生きることができるよう、御言葉を与えてくださっています。ですから神を讃美し、神を待ち望む生き方は、御言葉に従うことを喜びとする生き方です。神は私たちの体に必要な食べものを与えてくださいます。そして、魂の健康のために、御言葉を与えてくださっています。

神を待ち望むということは、神を讃美して生きることであり、御言葉を喜び、御言葉にしたがって生きることです。

このような生き方と対極にあるのは、神ではなく人を頼りにする生き方です。誤って人間を頼ることのないように詩人は3-4節において警告しています。

「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。」と詩人は言います。一国の中で、王が一番権力を持ち、国を支配し、一番自由に行動できる存在です。しかしそのような存在であっても、決して人の命を永らえさすことも、永遠に生かすこともできません。この詩人が、「君侯に依り頼んではならない。」というのは、権力をもつ王であれ、自分であれ、「人間には救う力はない。」ので、その人間的な力や資質に決して頼ることはできないといういうことです。人は、この言葉の持つ根本的な意味の認識から、人生の希望の問題を考えるべきです。人間とは何ものか、詩人は4節で述べています。

創世記に記されている創造物語によれば、人は土の塵で造られ、その鼻に神の霊が吹き入れられて、人は生きるものになったといわれています。土の塵という最も価値のない、壊れやすいものを用い、人間が創造されたということは、人間はそれ自体に何の優れた価値も見出すことができない存在でしかない、ということが物語られています。しかしこの価値なき、壊れやすい土の器に、神の霊が吹き入れられ、人は生きるものになった、ということは、人は神の霊の働きによってのみ生きることができるということがいわれています。

だから詩人は、ここで、「霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。」というのです。

私たちがどんなに壮大な理念や計画を持っていて、それを実行しようとしても、神がその霊を私たちから取り去られるなら、その計画は全く一瞬のうちに、無駄になってしまいます。「その日、彼の思いは滅びる」と言われているからです。

だからといって詩人は、人間が計画を立てて、生きる努力をすることは、空しいことで、そのようなことをすべきでないなどといっているのではありません。そうした努力は現実には必要なことですし、私たちは考えなしに人生を生きるべきではありません。

しかし人生の究極の支え手は誰か、その支え手との正しい関係の中での、正しい生き方を求めないで、ただ人間的な力にのみ頼ろうとする生き方は空しいと述べているのです。他人であれ自己であれ、幸福の究極の力として、人間の力に頼ろうとすることは空しいと述べているのです。

天地を造られた神は、ヤコブの神としてこの世界を今もご自身の現実として引き受け、心配してくださる神です。そのことが7-9節にかけて実に慰めに満ちた言葉で語られています。

神の恵みは、人間的な希望が崩れ去ったまさにそのところに力をあらわします。虐げられている者、飢えている者、捕らわれ人として苦しんでいる者、病む者、人々から見捨てられた弱者に、神は守るもの、救い主として、助け、励ましを与えられる方であることが、ここで述べられています。

罪に敗れている者、病いや弱さを持つものを顧みるために、神は御自分の独り子をさえ惜しまないで与えてくださっています。詩篇27編10節 には、「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」という言葉も記されています。

天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神は、今もその変わらない恵みの力で、この世界に生きるわたしたちを守り、わたしたちを救う神として、共にいてくださいます。わたしたちの罪や、弱さを担い、わたしたちを真に幸いなものとして、その御前に生きることができるよう、キリストにあって救って下さっています。この神を頼みとし、この神を待ち望み、この神を讃美して生きる人は、幸いであると言われています。ですから、ヤコブの神としてイスラエルの民にご自身を示された神は、今、わたしたち一人一人の名を覚えていてくださる神としてご自身を示しておられます。この神を頼みとして、主を待ち望むものは幸いであると、私たちは呼びかけられています。そのような幸いなものとして共に歩みましょう。ともに神を賛美して、神の祝福のみぎわを歩むものとなるよう、神はわたしたち一人一人の名を覚えて、望んでおられます。

旧約聖書講解