サムエル記講解

41.サムエル記下10章1-19節『ダビデ王国の絶頂』

10-11章は、ダビデ王国の絶頂とダビデの罪の問題が扱われています。ダビデは全イスラエルの王となり、次々に周辺地域を征服しその支配地域を拡大して行きましたので、周辺の国はダビデを恐れて貢納をもって仕えるか、連合して戦うかいずれかの態度を持って対応してきました。10章1-14節のアンモンとの戦いの出来事は、時間的にはダビデ王国の比較的初期のころのものと思われます。ダビデの使者をこのように軽く扱えたのは、ダビデがまだそれほどの王ではないと若きアンモンの王とその側近の者には感じられていたからであろうと思われます。

ここに登場するアンモンの王ハヌンは、ナハシュの子であると報告されています。ナハシュはかつてヤベシュ・ギレアドを攻め包囲した時、その住民が契約を結んで仕えますといって恭順の姿勢を示したのにもかかわらず、「お前たち全員の目をえぐり出すのが条件だ。それをもって全イスラエルを侮辱しよう」といって、彼らを戦慄させ、ヤベシュの人々は、全イスラエルに使者を送って、救いを求めました。その時立ちあがってこれに応えて勇敢な行動を取り出陣したのがサウルでした。サウルは全イスラエルを率いヤベシュを救いました。

このとき以来サウルとアンモンは敵対関係にあり、サウルに敵視され追われるダビデとアンモンの王ナハシュは奇妙にも共通の仇敵の身方同士のように、友好関係にありました。ダビデはその父ナハシュの死の知らせを聞き、ナハシュの息子である若き王ハヌンに使者を遣わし、父のように、も忠実であるべきだといって、哀悼の意を伝えようとしました。しかし、ハヌンの高官たちは、この使者は町を探りに来たといって、彼らを辱める助言を行いました。

ダビデのこの行動がアンモンの人々に猜疑の目で見られるのは、考えて見ればある意味で当然のところがありました。それは、ダビデが全イスラエルの王に就任した直後、ヤベシュ・ギレアドに使者を送り、彼らが命の恩人サウルを丁重に葬り、主君に忠実であることをたたえ、彼に代わって王となった自分があなたたちの働きに報いたいとの意思を伝え、今度はダビデに恭順になるよう求めたことをアンモンの人たちは知っていたからです(下2章)。ダビデのヤベシュ・ギレアドに対する行為も、今回の自分たちに対する行為も、単なる領土拡大の野心からでたものであるとアンモンの人々は見なしていたからです。

ハヌンもそのように理解し、側近の者の助言を聞き入れ、ダビデの使者を捕らえ、あごひげを半分そり落とし、衣服も半分腰から下を切り落として、追い返すという辱めを行いました。

あごひげは、オリエントの男性の誇りでありましたから、その半分をそり落とすことは大変屈辱的なことでありました。その上着物を半分腰から下を切り落とされることは、絶えがたい屈辱感を使者に与えました。王の使者は、王の全権を委ねられてかの地に尋ねていますので、彼らを辱めることは王とその国を辱めることになります。彼らはこのような恥ずかしい格好をさせられて、おそらく道の両側から鞭打つ男女の群れのなかを二列で歩かされ、彼らは逃げるように走り出してそこを出て行ったに違いありません。

彼らがこのような辱めを受けたという知らせは、すぐにダビデのもとに届けられました。はや馬の使者が送られたのでしょう。ダビデはこの辱めを受けた使者の心を思いやり、彼らに使者を遣わし、「ひげが生えそろうまでエリコにとどまり、それから帰るように」と伝言しました。ダビデは自分が辱められたことに対する怒りを先に表すよりも、王の使いとしてその意を十分伝えられず、辱められたこの使者の屈辱に深い同情を何より大切にし、彼らがあまり恥ずかしい思いをして国に帰らなくても良いように、慰労の休暇を与えたのです。おそらくひげがもとの状態までなるのに1-2ヶ月はかかったことでしょう。

しかし、王はその間にこの使者を辱めたアンモンに報復の準備をしたという報告がここには見られません。むしろ、この辱めがビデの憎しみをかったと知ったアンモン人がその報復を恐れて、先に「ベト・レホブおよびツォバのアラム人に人を遣わして歩兵二万を傭兵として要請し、マアカの王には兵一千、トブには兵一万二千を要請した。」(6節) といわれています。

ダビデが行動を起こしたのはむしろその後からです(7節)。ダビデは臆病ですぐに行動しなかったのでありません。単なる領土拡大の野心や、個人的な辱めに対する怒りから報復の行動を取り、平和を乱すことを好まなかったのでしょう。アンモンの王ハヌンへ使者を送ったのも平和の友好関係継続が目的だったからです。

しかし、ダビデ王のこの好意をハヌンは踏みにじっただけでなく、その報復を今度は恐れてその対応にばたばたとし、多くの同盟国の支援を仰がねばならなかったのです。ハヌンも若ければ、その側近の者の知恵も浅く将来に対する見とおしにかけています。その戦争の原因は、ハヌン自ら作り出した無分別な行動でありました。戦争というのは、案外こんな些細な一握りの馬鹿げた人々の行動から生まれるものであることを、肝に命じるべきでしょう。召集された地域も、兵士たちの数も相当なものです。

ところがこれに向い討つイスラエルの兵士の数は、「ヨヤブをはじめ勇士たちの全軍」と言われています。すべてのイスラエルの兵士たちが動員されたのではありません。ダビデも戦いには参加していません。最初から「勇士たち全軍」による精鋭部隊だけがこの戦いに派遣されたのです。

このときの戦場の様子が9―12節に次のように記されています。

「ヨアブは戦線が前方と後方にあるのを見て、イスラエルの全精鋭から兵をえりすぐり、アラム軍に向かって戦列を整え、残りの兵士を兄弟アビシャイの指揮にゆだねて、アンモン軍に向かって戦列を整えさせた。」戦場に出たヨアブは、歴戦の勇士でしたから、すぐに戦場の状況を把握できました。その状況はきわめて不利なものでした。戦闘員の数からいっても、戦場の状況から見ても、圧倒的にアンモンの側に有利でした。少ないイスラエルの精鋭部隊が完全にアンモンに包囲されている状況でした。「戦線が前方と後方にあるのを見て」という言葉は、この戦いが不利な状況にあるのを見て、という説明になっています。

この戦形を見て、 ヨアブは「アラム人がわたしより強ければ、こちらを助けてくれ。アンモン人がお前より強ければ、そちらを助けに行く。 我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」(11-12節)と語りました。人間的に見てどう見ても勝ち目のなさそうな危機的状況をヨアブは感じていました。

ヨアブはこの状況を切り開くため、兄弟アビシャイと二つに分かれ前後の敵とそれぞれ戦えるよう戦列を整えました。この窮地はしかし、せっかくこのパレスチナの地域に大きな王国を築いたダビデ王国が瓦解して行くことのなるかも知れない、天か分け目の「関が原」の戦いのような観をていしていました。しかし、その戦場の中心に、王ダビデが指揮官としていませんでした。

しかし、このときヨアブは兄弟の結束で人事を尽くすと共に、何より主なる神の守りによりこの戦いを勝利へと導かれることを祈り願いました。

「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」(12節)このヨアブの祈りは、この戦いが主のためのものであるという信仰が表されています。ヨアブは冷徹な人間で、残酷なことも平気で行う合理主義者でありましたが、ダビデを王とした神、その神の祝福のもとにあるその王国の町々を神が守ってくださるなら、この状況も神の力によって切り開かれる、そういう信仰をヨアブは示しました。

果たして、ヨヤブの祈りのとおり、神はイスラエルのためにアンモンに身方するすべての軍勢のこころをくじかれました。その敵たちは戦わずして、ヨアブとアビシャイの前から逃げ去ってしまったのです(13-14節)。

ヨアブの率いる勇士たちは、戦わずして勝利し、勝利の凱旋をしてエルサレムの帰ってくることができました。

ダビデはこの戦いに参加しませんでした。しかし、主がダビデに代わり戦い勝利し、その辱めに報復なさいました。アンモン人の王ハヌンはダビデの使者の髭をそり落としたり、着物を切り落として辱めましたが、戦場で戦わず逃げ出すことはもっと大きな屈辱です。しかも少数の敵の前から、敵の王のいない部隊の前から逃げ出すことはもっと大きな恥辱です。

ダビデ王国とダビデの名声はこの戦い以後、周辺世界に広まることになりました。この知らせを聞いたアラムは脅威に感じ、ハダドエゼルと同盟してこれに対抗しようとしました。しかし、ダビデはこれらの戦いにことごとく勝利を収めて行きます。

そしてついに、「 ハダドエゼルに隷属していた王たちは皆、イスラエルに敗北したことを認めて和を請い、イスラエルに隷属した。アラム人は恐れて、二度とアンモン人を支援しなかった。」といわれるようになります。こうしてダビデ王国は、その支配をユーフラテスからエジプトの間を支配する王国を築く絶頂の時代を迎えることになります。主がダビデと共にあり、主がこの王国を祝福されているからです。

しかし、その絶頂の時こそ身を慎むことが大切です。人の心におごりを生み、悪魔に隙を与えることになる危険の目は、この時にあったことをわたしたちは次の瞬間に知ることになります。

旧約聖書講解