詩編講解

24.詩編第32篇『罪の赦しを知る喜び』

この詩篇は、アウグスティヌスが特別に愛した詩篇であると言われています。またルターは、この詩篇を51、130、143篇とともにパウロ的な詩篇であると呼んでいます。古代教会においては、これを「七つの悔い改めの詩」(6、32、38、51、102、130、143)の第二番目に数えています。けれども、この詩は、悔い改めの祈りではなく、感謝の詩に属します。この詩篇の作者は、自ら経験した悔い改めと罪の赦しを回顧し、その感謝を歌い、自分の個人的な経験の中からすべての信徒に対する教えを引き出しています。

作者は、冒頭の2節で、「いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」と、罪の赦しに与かった幸いを心から感謝し、賛美の歌を歌っています。その感謝の喜びは、自らが罪と苦闘して勝利を収めたことから生まれたものではなく、神の前に屈伏して自らの罪を認めて、神が罪深いわたしという人間に勝利したことによってもたらされる、神から与えられる勝利の報奨としての喜びであります。神は人の「罪を取り除き」、「罪を覆い」、「その咎を数えない」、これが作者自ら経験した幸いであります。

この幸いを知ったのは、いかにしてであったか、それを3-5節において語っています。3-4節には、赦しを与えられるまでのこの詩人の内面的葛藤がつぎのように描写されています。

わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。

かつて作者は、神からの逃亡を試み、自分の罪について黙秘することによって、神に対する責任を逃れようとしました。しかし、神の前に逃亡などあり得ません。神はすべてをご覧になり、私たちの心の深みまでも知り尽くしておられるお方です。そして神は、私たちの心に神の「かたち」を与え、良心を与えておられます。それ故、この詩篇の作者は、口をつぐんだところで、その胸のうちに憩いを見出すことはできませんでした。

詩人の魂は苦悩にさいなまれ、激しく内から燃え上がる良心の声に焼かれています。いくら沈黙によって平安を得ようとしても、良心の呵責に妨げられてしまうのです。そこから逃れたいと思っても、神の御手がかえって重く自分の上にのしかかってくるのを感じ、ついに詩人は、不安と苦痛に耐えかねて、大声を上げて叫ばずにいられなくなりました。罪を自分のうちに隠蔽し、隠匿し、外面的に取り繕いつづけると、それは癌のように人間の生を脅かし、内から破滅させていきます。こうして彼は、絶え間ない良心の呻きに「骨まで朽ち果てる」のを経験しました。

神の御手に押さえつけられて、不安と苦悩のうちに衰えていく人間は惨めです。いかなる人間も、神の御手を振りは払うことはできないからです。神の究極的な現実の前に置かれて、人間の真の姿が露にされます。

そういう神の現実の前にまかり出て神を見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(イザヤ6:5)と叫びました。神の召しに与かる預言者イザヤが神の聖に触れて、「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(同)と叫ぶほかありませんでした。

圧倒する神の聖の前に立たされたこの詩人は、その力の前に屈伏し、夏の日照りにあって衰え果てる人のように、自分の罪にうなだれ、衰え果てるしかない自分の現実を認識しました。しかし彼は、召命のときのイザヤのように、聖なる神の御前に立ち、自分にとって生きるに値する生は、この道以外にないことを同時に悟りました。かくて彼は、良心を通して語りたもう神の声に聞き従いました。神の真実が詩人のうちで勝利をおさめ、神に克服されることによって、彼は自分自身を克服し、自分の罪咎を次のように告白することができました。

わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。(5節)

罪の告白は、ただ神の働きによって可能となります。神の前にある自分の現実を知って、自分に正直になりきることによって、それは初めて可能となります。人が自分で自分の罪を隠そうとすれば、神がその罪を覆われることはありません。罪とは、人がそれを隠すことそのものうちにあり、そこにもっとも醜い人の罪があります。赦しとは、それとは反対に神がその罪を隠されることであります。

神は、私たちが心を開き、私たちが隠していたその罪を告白するものとなるとき、私たちの罪を、ご自身の義で覆いその罪を赦してくださるのです。人は自分の罪を消し去ることも、覆い隠すこともできません。しかし、その罪を告白し、神に祈り、神を求めて生きる人に、神の御手がその罪を覆い、神の義が前から後ろから取り囲んで覆い満たすのです。

この詩篇の詩人は、そのような罪の赦しの恵みを経験しました。この自分が経験した神の恵みが、すべての信徒にとっていかなる意味を持つかを、彼は理解し、次のように告白しています。

あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。(6,7節)

人は神の慈しみに生きたいと願うなら、祈りにおいて神の前に正直になり、その罪を告白し、神に心を開くものとなる、ということをしなければなりません。そうするとき、祈り手は、神の恵みのうちにあって、自分があらゆる苦難からかくまわれているのを感じることができます。私たちの真の平安はただ神を隠れ家とするときにのみ与えられるからです。

8-11節は、この詩篇の詩人が自らの体験を基にして語る教えであるという解釈と、これは神の啓示であるという解釈とがあります。詩人が自らの体験を基にして語る教えであるという解釈を取るにしても、彼自身が神の啓示を受けて学んだことに違いはありません。彼は自らの苦悩の体験を通して、徹底して神に屈伏して神に聞き学んだ最高の知慧は、「神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる」(10節)ということであります。そして、神に信頼し慈しみに取り囲まれる生活とは、神に心を開いて、神を喜び、神に感謝して神礼拝に生きる道であります(11節)。赦しの神に目を注ぎ、その神の懐で憩う、感謝の喜びの生こそ、私たちに与えられる最高の生であります。

旧約聖書講解