エレミヤ書講解

31.エレミヤ書20章7-9節『エレミヤの告白』

ここには預言者エレミヤの体験に基づく赤裸々な告白が記されています。それは決して他の預言者からは聞くことのできないものでありますが、エレミヤはその苦悩の告白を、ホセア同様、神とイスラエルの関係、また自身と神の関係を、愛のイメージで考え解釈しようと努めています。

7節の次の言葉は、翻訳の上の議論が注解者の間で存在します。

主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。

ヘッシェルというユダヤ教の聖書の研究者は、このところを次のように訳すよう提案しています。

おお主よ、あなたはわたしを誘惑し
わたしは誘惑されました。
あなたはわたしを強姦し
わたしはあなたのなされるままになりました。

ここには特別なニュアンスを持つヘブライ語の二つの動詞「パータハ」と「ハーザーク」という語が用いられています。その聖書の用法について、ヘッシェルは次のように述べています。「パータハ」は、よこしまな思いをもって若い女性を誘って結婚前性交を承諾させるという特別な意味で聖書に用いられている(出エジプト記22:15、ホセア書2:14、ヨブ記31:9参照)。「ハーザーク」は、嫌がる女に暴力を振るって結婚外性交を遂げることを意味する(士師記19:25、サムエル記下13:11参照)。第一の動詞は、誘惑もしくは誘い出しを、第二の動詞は強姦を意味する。誘惑は暴力を用いない点で強姦と区別され、誘惑された女性はその関係を承諾したとみなされる。エレミヤはこの個人的生活に対する神の衝迫を記述するために用いた言葉は、聖書の法律用語集においてそれぞれ誘惑と強姦とを意味する二語と同一である、とヘッシェルは述べています。

エレミヤはこの二語を用いることにおいて、預言者の召命を招待以上のものであることを示そうとしています。それ何よりも誘い出されることであり、それを黙認するか、進んでいいなりになるという感情として自らの召命を捉えています。しかしこの魅力的な感情は、彼の預言者経験の一つの位相を示しているにすぎない。別の位相は、陵辱される、暴力で犯される、圧倒的暴力にいやおうなく屈服せしめられるという意識である。預言者は神の惹きつける力と強制力、魅力と圧力とを二つながらに感じている。自発的同一化と無理強いされた降伏とをふたつながら意識している、とヘッシェルは述べ、さらに、客観的に見るなら、預言者のこころをかきたて、誘い出すのは神の熱情(パトス)であるのに対して、預言者に対するあらわな共生を行なうのは無制約的威力である。主観的に見るなら、一方では説得に共感してすすんでこれに応じる態度であり、他方では神の圧倒的な力になすすべなく身柄を引き渡されてしまうという意識である、と述べています。これは傾聴に値する解釈です。預言者エレミヤが神の召命をどのように捉えているのか、どのようにして神に捉えられていると感じていたのか、このエレミヤの告白ほど見事に伝えてくれる言葉はほかにありません。ヘッシェルが述べているとおり、エレミヤのこころはそのような喜びと圧迫される神の強制力の狭間で苦しんでいたのです。

エレミヤは愛する民が破滅に定められているという使信を委託されて、自らの使命に喜びを失います。それは主観的には、彼にとってすすんで告げたい使信ではないからです。しかし、神の意志の強制の下に置かれている彼には、自分の意志とは異なっていても、それを告げねばならないのです。そうしてエレミヤは神の意志に従い語りました。しかしその結果として、同胞の敵意と激怒を挑発することになりました。悲嘆の情景を目撃し、切迫する災いを予期して、エレミヤの魂は打ちのめされてしまいます。エレミヤのこころは民への深い同情に彩られていただけに、彼の見る審判の現実は悲惨なものでしかないからです。

しかし、エレミヤは神の婚約者、神の花嫁としての喜び楽しみも知っていました。(エレミヤ書15章16節)
エレミヤが主のために熱心に語れば語るほど、「それは嘆きとなり」「恥とそしり」を一日中受け、それに耐えねばならない日々が絶え間なく続きます。エレミヤは無理解とそしりに耐え続けました。しかし、彼に加えられる反逆と弾圧は増すばかりです。それでもひるまずエレミヤ語り続けたのです。エレミヤは主の言葉をむさぼるようにして食べた喜びを誰よりも知る預言者で、主の御言葉によってそのこころは喜び踊るという体験を持つゆえに、主の御言葉を語ることへの召しを喜びとしてきたのです。その自らの熱心をエレミヤは別のエレミヤ書25章3節で語っています。

主の言葉に仕えるエレミヤの熱情は、それほどにゆるぎなく不変のものでありました。しかしそれほど不変の態度で主の言葉を語り続けたエレミヤが、

主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい(9節)

と述べねばならなかったほど、彼の体験した苦悩は深刻であったのです。これは命がけで真剣に御言葉を語り続けた者だけが味わう深い苦悩です。一度や二度の挫折で、エレミヤはこのように語ったのではないのです。何度も何度も聞かれない苦しみを味わい、真実の預言者でないといわれ、迫害されてもひるまなかったエレミヤがこのような苦しみを吐露している、そこに人間エレミヤの限界を見る思いがします。エレミヤにその苦しみを与えたのは、主の御言葉を語ることへの使命です。

しかし、エレミヤはその苦悩の中から立ち上がります。その立ち上がりのきっかけを与えたのも、彼が語るのをやめようとした、その主の言葉の力でありました。
エレミヤは「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」と思っても、主の言葉が、エレミヤの心の中に閉じ込め、骨の中に閉じ込められても、その御言葉の火は、消えることなく、くすぶり続け、ついに「火のように燃え上がる」という体験をエレミヤはしています。エレミヤはそれを、「押さえつけておこう」としますが、その燃え上がる力はそれよりも強いのです。エレミヤはついに押さえつけることができないことを悟らされ、断念せざるを得なくなります。

ついにエレミヤは、主の言葉の力に敗北する自分の姿に気づかされます。エレミヤは召命の日に、エレミヤ書1章19節のような主の言葉を聞いています。

エレミヤに敵対する者は勝つことができないことを、エレミヤは召命の日に知らされました。それは、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」といわれる主の臨在と救いの導きがエレミヤに与えられるからです。そのエレミヤに対する導きは、どこまでも御言葉の力を通して現されます。エレミヤは、そのように働く主の言葉を抑えようとしても抑え込めない燃え上がる火の力を、そのこころに、その体全体に、その苦難の中で見出したのです。エレミヤは苦しみの中で神からの自由を求めて生きようとしました。しかしエレミヤはこの苦しみの告白を通して、神への自由を獲得します。その自由の中でエレミヤの嘆きと懇願の祈りが神に向けられることになります(10,12節)。このエレミヤに勝利する御言葉の力は、神に召されたすべての者に向けられています。わたしたちにも向けられた神の勝利の力であることを覚えることが何より大切です。この御言葉の力に支えられているところに私たちの真の希望と慰めがあります。

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