士師記講解

11.士師記10章17節-11章28節『解放者エフタの挑戦』

今度はイスラエルを悩ませるのは、ミディアン人ではなくアンモン人です。苦しめられるのは、この場合もイスラエルが他の神々を偶像崇拝する罪を犯したことに対する審判としてです。アンモン人に悩まされたのは、ギレアド、ユダ、ベニヤミン、エフライムの人々です。彼らが叫び声を上げ、他の神々を捨て主に立ち帰ったとき、神はまた一人の裁きつかさを起こされました。それが、エフタです。

アンモン人はイスラエルとギレアドで戦うために集まっていました。これに対してイスラエルはミツパに集まって戦おうと致しましたが、指導者を持たずにいました。戦いは指導者を持つものが有利に進めることが出来るのは、昔も今も変わりありません。エフタはこのような状況の中で召命を受けていくのですが、11章1節-3節に紹介されている通り、エフタは遊女の子で、従って系図的には父親がいませんでした。彼の母は正式の妻でもアビメレクの母のようにそばめでもありません。それ故、11章1節で父親の名が記されているのは、土地の名です。ギレアドがエフタの父でありました。

エフタは私生児として、何の世襲の権利も持ちません。彼の腹違いの兄弟たちはエフタを追放したので、現在ではラモテ・ギレアドの近くにあると考えられているトブの地に住み、そこでならず者の指導者として生活していました。 そんなエフタが士師として、登場する仕方は劇的です。

エフタはアビメレクと同じように、ごろつきを従えていました。しかし、アビメレクが彼らを好んで雇ったのと違って、エフタの場合は社会的に見捨てられた存在ですから、生きていくためにはそうした道を選ばざるを得なかったので、結果としてごろつきの指導者となりました。

エフタを追い出したギレアドの長老たちは、アンモン人たちが攻めてきて、これと戦うために適当な指導者のいないことに危機を感じていました。彼らはエフタを追い出した中心人物でした。しかし、この国家存亡の危機に臨んで、ごろつきの頭領として頭角を現していたエフタを呼び戻そうと致しました。平和なときには、役に立たない寧ろ厄介者と考えられていた者が、戦時には価値ある者として求める勝手主張がここで成されています。

実に人間味溢れる遣り取りが、エフタと長老との間で成されています。追い出された事が忘れられないエフタは、それではあんまり勝手な言い分ではないかと、粗野な言い方ですが、当然のこととして質問して長老たちを困らせました。

しかし、戦いにおいてエフタの熟練さが絶対必要だと理解していた長老たちは、エフタが戦いの勝利者となった日にはギレアドの頭として治めてくださいと申し出ました。エフタは、ギレアドのために戦うことと民の頭となることを受諾致しました。その契約はミツパで批准されました。

こうしてエフタは、アンモン人と戦うさばきつかさとしての召しを受けました。神の人の召しはどのようにして与えられるか判りません。神は私生児として生まれ、社会的に見捨てられた人をも用い、しかも人間のエゴを超えて、ご自身の御計画を実現なさるお方です。

エフタは早速、アンモンの王のところに使者を遣わして、何故お前たちはイスラエルと戦うのかと問います。ここで、エフタがアンモン人の王に挑戦している言葉が実に印象的で大事だと思います。

アンモンが土地を失い、イスラエルがその土地を所有しているのは、アンモン人の神が無力でイスラエルの神が力ある真の神だから、三百年間そのことが動かずに保持され続けたのだと主張しました。そして、今日においても、この問題の判定者は主で、この種の権利を人はどうすることも出来ないとエフタは答えます。

ここに土地の真の所有者は主であるというエフタの確固とした信仰が表されています。信仰において、この主の意志に服していくときに、イスラエルの戦いの勝利は不動のものとなります。エフタは、アビメレクのようにごろつきで身を固めて、勝利を自分の手で引き寄せようという試みを断念しています。エフタは、神がその背後で支え戦いそのものを導かれることを確信し、より頼もうとします。エフタがこのような挑戦をアンモン人の王に対してすることが出来たのも、勝利者キリストに対する絶対的な信頼を置いていたからです。

エフタのこの挑戦は、私共一人一人に向かっても投げ掛けられています。自分の信じている神が本当に信頼できると信じるなら、危機に直面して何故この神に望みを掛けないのかとエフタは挑戦します。人間が権利侵害したかどうかは、表面のことであって信じている神の真実さが決すると信じる信仰は、危機に直面して動じません。主はそう信じるものにまた、憐れみ深いのです。

旧約聖書講解