エレミヤ書講解

23.エレミヤ書14章1-16節 『旱魃』

14章1節から15章9節には、旱魃を主題にした異なる二つの民の嘆きと預言者の嘆きと神のことばが記されています。14章1-16節では、嘆きの理由は旱魃だけですが、14章17節以下では、嘆きの主な理由は戦争の惨禍です。そして、それと相前後して生起した旱魃による飢餓と困窮がその嘆きを深くする原因として語られています。ですから、この二つの旱魃に対する嘆きは別の状況の下でなされたものであると思われます。

さて、この旱魃に見舞われたとき、エレミヤに主の言葉が臨み、それがいかなる理由で起こったかを知らされます。

「旱魃」を主題にしたこの箇所で把握しなければならない大切な点は、旱魃そのものではなく、それに直面して主の前にまかりでて、真の原因を自らの罪にあると告白している民の悔い改めの告白の真実さ、御言葉に聞く態度の真実さ、御言葉を仲保する預言者の行為の真実さ、これらの全体が問われているという点です。

2-6節において、旱魃に直面したユダの民の渇きとその地の惨状が、深い嘆きの言葉で現されています。

ユダは渇き、町々の城門は衰える。
人々は地に伏して嘆き
エルサレムは叫びをあげる。
貴族は水を求めて、召し使いを送る。
彼らが貯水池に来ても、水がないので
空の水がめを持ち
うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。
地には雨が降らず
大地はひび割れる。農夫はうろたえ、頭を覆う。

旱魃に見舞われると、富裕な貴族さえ、いくら富があっても水を手に入れることができません。召使を送っても、空の水瓶を持ち帰るだけで、ともに頭を覆うだけで成す術を知りません。農夫は雨が降らずひび割れた大地を見て、同じようにうろたえ頭を抱えています。その悲惨な影響は動植物界にも及びます(5,6節)。

旱魃という悲惨な状況に直面した民は、神殿に集い、預言者の口を通して神に向かいます。預言者は民を代表してこのように嘆きの言葉を述べ、その原因が民の罪にあることを明らかにして、神の哀れみと顧みが表わされるのを待ち望み、罪の告白を行います。

預言者は「我々の罪が我々自身を告発しています」(7節)と、自らを民の側においてその罪を告白しています。彼が期待しているのは、御名の真実と力による救いです。エレミヤは契約においてイスラエルを選ばれた神が御名によって呼ばれているこの民を見捨てないようにという願いによって、神の愛顧を期待し、またイスラエルに対しては、主を信じ、御言葉に聞き従う者として相応しく悔い改めること期待しました。ここにエレミヤの神への絶対的な信頼と「我々を見捨てないでください」という民への深い共感の中で生きる一途な信仰を垣間見ることができます。

しかし、神の応答はエレミヤの期待したものと全く違っていました。神の応答は民に向けられた告知という性格をもっていますが、エレミヤ個人に向けられた啓示のことばです。3人称で語られているところに、エレミヤ個人に向けられた啓示のことばであることを示めしています。「かれらはさまようことを好み、足を慎もうとしない」(10節)と言って、一向に主の言葉に聞き従おうとせず、心から悔い改めようとしない民の姿を、主はエレミヤに明らかにします。エレミヤがここで知ったのは、主はそのような彼らを喜ばれず、今やその罪を御心に留め、その咎を罰せられるということです。このように、神の応答には民が望んだ救いの約束の代わりに、災禍の通告が含まれていました。

したがって、民が預言者エレミヤの口を通して聞くのは、自分たちの振る舞いに対する神の審判です。ここに至って、神はもはや、契約の民のなすべき唯一の行いご自身に対する絶えざる信実について語ることをなさいません。むしろ民がいかに無定見であったか、すなわち、他の神々とヤハウェとの間を彷徨い続ける彼らの動揺を、彼らの偽りの宗教的行動の典型的な有り様として暴露しています。

神はエレミヤに対し、民のために執り成しの祈りをすることを禁じました。

「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」(11-12節)

ヤハウェは民を崩壊させることを決断していたからです。それは、その場限りに終わらない真の悔い改めがこの民にもはや認められなかったからです。

しかし、エレミヤはこのように決然とした神の審判の決定にもかかわらず、敢えて民のために、再び、神との仲裁に立とうとします。エレミヤは自身の心の苦悩をないまぜにして、神殿において他の祭儀預言者の口を通して告知された救済の預言は、神の審判の決定と矛盾しないだろうかという問いを投げかけています。

わたしは言った。「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と。」(13節)

このような問いには、エレミヤが他の祭儀預言者と同じような伝統から出発して預言者として召されたことを示しています。それゆえに、エレミヤにとっては、この神の審判の言葉が救済の言葉と矛盾しているように見えるのです。だから、エレミヤに与えられた預言者としての特別な任務の認識には、ヤハウェ自身による教示が与えられる必要がありました。

「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」(14節)

エレミヤに臨んだ主の言葉は、主の啓示の言葉です。エレミヤはここにおいて、自分が他の祭儀預言者と全く違う出発点に立っていることを知らされます。他の祭儀預言者は、ヤハウェから遣わされたのでもなく、またヤハウェの委託を受けたのでもないのに、偽って彼ら自身の言葉を神の言葉として伝えているので、ヤハウェはそのような彼らの偽りの言葉と関わりを持つことを拒まれることを、エレミヤは知るに至ります。そして、エレミヤの認識の基礎は、ここにおいて、非常に明瞭に、あくまでも神の啓示にのみあることを自覚するに至ります。このエレミヤの認識は、彼の晩年に至るまで強く保持されることになります。ここにおいて、エレミヤは先入観から解放されて、自ら尊敬をもって受け止めていたところの伝統に対する批判を恐れずに行う、孤独な道へ第一歩を踏み出すことになります。エレミヤの預言者としての預言の純粋性の基礎は、ただ神の啓示にのみ従うという、この認識にありました。

こうしてエレミヤは、偽りの預言者に対する極めて鋭い批判者、反対者となりました。それを神から与えられた自らの使命として自覚したとき、エレミヤは、偽りの預言者に対して厳しい神の審きを語らねばならないと思うようになります。

預言者が民の御機嫌を取るために耳障りのよい偽りの救いの言葉を述べる。そして、民はそれに好んで耳を傾ける。それは、民が、耳障りのよい救いを語る預言者に下される神の審判を自ら被らねばならないことに結びつきます。民の状態がこのようなものであったので、エレミヤが弁護すべき情状は、全く存在しなかったのです。御言葉に耳を傾けて生きないなら、大地の旱魃よりも厳しい御言葉の飢饉に見舞われます。そして、民には、御言葉をないがしろにしたのにふさわしい形で、「投げ捨てられる」という審きがまっています。

今わたしたちはどうあるべきか、この御言葉は、わたしたちにも自己吟味を求めています。

旧約聖書講解