詩編講解

30.詩編第39篇『主への待ち望みの中で』

詩編39篇は、神との独特な対話を通してなされる魂の苦闘について洞察しています。その洞察の深さは、詩篇の中でも稀に見るものがあります。この詩人は、生の根本的な問題である「神と人間」「神と罪」の二つの問題を、自分の辛い経験に基づいて捉えています。

この詩篇の作者は自己省察をもって始めています。彼は自分の苦闘していることがらを神に打ち明けています。それは、自分の心に決めていることと実際に行っていることとの間にある不均衡であり、彼自身が苦悩している問題でありました。身震いしながら、人間の本質にある深淵を見つめ、逃れようのない自分の罪と無力を前にして、なす術もなく佇んでいる人間にとっては、こうする以外に道はありません。彼は黙って神により頼むことによって、神から与えられた苦しみに耐えようと決心していました。それは、自分が神に対する訴えや抗議することによって、神を信じない神なき人々に、自分を恰好の見せ物にすることだけはすまいという決心をしていたからであります。

しかし、彼は自制しょうと必死に努めましたが、烈しく込み上げてくる思い煩いと耐えがたい苦痛を抑えることができませんでした。ついに彼は自ら沈黙を保とうとしておいた禁を破り、語り始めました。今や彼は、神の御前に歩み出て魂の苦悩を余すところなく告白します。

彼が自分の罪の堕落した姿をいかに深刻に受け止めているかは、その祈願において示されています。彼は感情の細やかな人間で、自分を襲う外的・内的な苦難の最中で神と対話し、その事を通して失いかけた自分の本来あるべき道を再び取り戻そうと努めているのであります。彼は神との対話の中で、神の御前にいる人間のはかなさ、空しさについての理解を深めていきます。人間は神からの視点を与えられるとき、初めて人間の真の本質を理解する唯一の確かな尺度と指針を得ることができるのであります。

人間の持つもっとも根本的な偏見は、自分を過大に評価するという傾向であります。この詩篇の作者も、その偏見から自由ではありませんでした。人はその偏見から自由になりたいと真剣に考えるなら、神からの尺度と指針を必要としているのであります。

自分を過大に評価しようとする偏見から自由にされ、自らの死期と人生の空しさ、はかなさを見つめることによって、反抗的な自負心を捨て去ったとき、人は神の現実に対する正しい関係を得ることができるのです。人は神からの視座を与えられるとき、移ろい行くものになおも拠り所を得ようとする一切の試みを排除することが可能となるのです。この詩篇の作者はその視座を与えられて、それを徹底的に行う勇気と真剣さとを持つことができました。それ故、彼は、極端な悲観主義からも守られ、いかなる幻想にも惑わされない、醒めた現実主義者として立つことができました。

このように神の御前における人間の本質の空しさはかなさを悟った人間は、神に眼を向ける真の眼差しが開かれます。そして、神の下で見い出される唯一の慰めと希望の拠り所にして目が開かれるのであります。神こそ待ち望むべき方でありす。彼が神に望みを置くのは、自分がただ神に対してのみ義務を負うものであり、自分の生の望みがこの神とだけ結びついていることを自覚したからであります。

しかし、彼はそのことを自覚するが故に、神から自分を隔てている罪、および神との関係から生じてきた責任に対しても目が開かれました。そこで彼は今、神に対する自分の希望を祈願として次のように述べるのであります。

あなたにそむいたすべての罪からわたしを救い
神を知らぬ者というそしりを 受けないようにしてください。(9節)

彼は一度、神に対する責任を自覚し真剣に受け止めて沈黙を保とうとしましたが、苦闘ののち挫折しました。

それ故、彼はもう一度、最初の決心に立ち戻って、自らの生を神の摂理として是認し、神に対する肯定が再び否定に至ることのないように努めるのであります。今や彼は、人間の本質と自分自身の無力を思い知らされましたので、神の助けなしにその決心を貫くことができないと自覚せざるを得ません。

そこで彼は、「わたしをさいなむその御手を放してください」(11節)と祈り求めています。

人間の無常についての悟りは、人間の罪咎に対する神の裁きという観点に立たないかぎり本物とはなりえません。神は人間の罪に対して死をもって報います。罪人にくだす神の審きは、破壊的でかつ徹底的です。その神の審きの破壊的な威力が12節において次のように明らかにされています。

あなたに罪を責められ、懲らしめられて
人の欲望など虫けらのようについえます。
ああ、人は皆、空しい。

神の恵みがなければ人間はお終いです。
しかし、この詩人は「主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください」(13節)と祈るとき、神が祈りを聞きとどけてくださるということを自覚していました。だからといって、自分には神に庇護を求め、救いを要求する資格がないことも自覚していました。だから、彼は、寄留者や旅人の如く、自分が身を寄せた方の好意と憐れみに依り頼むのであります。彼は決して神との結びつきから離れようとしません。神との交わりから離れようとしません。それがなければ自分は生きていけないことを自覚していたからです。それがなければ、そもそも彼の祈りはすべて不可能になってしまうからです。

この詩人の信仰において、神への畏れと神への信頼とが相絡まりあっています。彼は自分の罪に対する神の真剣な取り組みに恐怖を覚えるほど震撼させられています。それ故、神が自分のうえに注いでいる怒りの眼差しを他に転じてくださいと祈らざるを得ません(14節)。

神がその罪に目を注いでおられるかぎり、わたしたちには平安はありません。わたしたちの罪はそれほど重く消しがたいのです。神の目がわたしたちの罪に注がれるかぎり、わたしたちには裁かれ滅びるしかありません。しかし、神がその罪に眼を止めず、恵みをもって私たちに眼を注がれるとき、わたしたちの命は失われず、恵みの中で何時までも喜び生きながらえることができるのであります。わたしたちは、そのような神を待ち望み、その神に希望を置くことができるのであります。わたしたちの信仰は、そのような待ち望みの中で、いつもキリストと結びつけられ、保たれているのであります。

旧約聖書講解