詩編講解

68.詩編139編7-12節『神の遍在』、13-16節『神の全能』

詩編139編7-12節『神の遍在』

詩編139篇は、「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」(1節)という言葉で始められ、神が人間存在のすべてを知り、その行動も、思うことも、語ろうとする言葉さえも知っておられるという「神の全知」の告白と賛美を持って始められています。この詩篇の詩人は、自分には神の本質について見極めることはできないけれども、神は自分の存在のすべてを知っておられるという神の現実を、「その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない」(6節)と詩人は告白しています。

神が「前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる」(5節)現実を、信仰の目で見る時、一方で苦難の中にあっても、自分の現実を見ておられる神の目に守られていることを知ることができるようにされました。けれども、どのような小さな罪も見逃さず見ておられる神に、詩人は恐れを抱いています。この神の偉大な全知の前に逃れることができないという畏怖の心は、神の前における真の敬虔な態度のあり方を詩人に学ばせることとなりました。

今回学ぶ7-16節は、『神の遍在』と『全能の神』を知るものとされた詩人の信仰についてであります。

詩人は、自分を取り囲む神の現在を体験し、その恐るべき威圧的な印象に圧倒されて、神から逃れようと試みました(7節)。

詩人は、神の現実を逃れる可能性について思い巡らしますが、直にその可能性がないことに気づかされます。それは、「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう」という言葉の中に明らかにされています。

詩人は、神が霊的なお方であることを知っています。神が霊であるなら、神は場所に縛られることはないからです。神は霊において、どの場所にも、どの時間にも、どの空間にもおられることができる遍在の神であることを知ったのです。詩人は如何に「どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」(7節)と問い、遍在の神のもとから逃れようと試みても、それが不可能であることを知らされたのであります。

神のもとから逃れようとする詩人の試みはこうして失敗します。しかし、そのことは彼にとって幸いなことでした。彼はこのように遍在される神の、もっと偉大な救い、恵みの現実を知るように導かれたからであります(8-10節)。

神は人の目に見えなくても、霊において、どこまでも高い天においても、地の底深い黄泉の中にあってもいますので、「御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる」(10節)ことができると、詩人は信じているのであります。

「曙の翼」は、ヨブ記(3:9,41:10)においては、「曙のまばたき」と訳されています。この語は、はばたきや、まぶたや、まつげの動きを示す擬音・擬態語です。「曙の翼」は、夜明けに差し出でる光線が世界の果てまで届く様を描写する言葉でありますが、イスラエルの東の高地から昇る太陽の光は西の海の彼方まで届き、全世界を照らし出すほどの強さがあることを、「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも」という言葉で、詩人は表現しているのであります。神の遍在を知ることは、人間を孤独感から救います。共にいる神を知ることは、孤独に生き挫けそうな弱い人間を救い、その心に平安を与えるのであります。

詩人は、太陽の光がどれほど強く遠く届こうとも、神のみ手はそこにもあるし、神の導きは、それをもしのぐ強さで確かにあると告白しているのであります。神のみ手の確かさは、太陽の光が届くところをもしのぐ広いものであるという詩人の信仰の核心がこれらの言葉で述べられているのであります。

太陽の光を遮るマントや幕によって覆われているところでは、闇が覆っています。そこでは何も見ることができません。そのような闇の中では、人は神の目も届かないと考えるかもしれません。しかし、神にとって見通すことのできない暗闇など存在しないことを、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。/夜も光がわたしを照らしだす。」(11節)という言葉で表しているのであります。そして、闇の中で苦しんでいる者の存在を愛おしく思い、その心を優しく見ておられる神の光が夜も与えられ、照らし出されて、心に平安が与えられる確かな喜びを詩人は語っているのであります。

すべてを貫く神の現実の前に、あらゆる人間的可能性は失せ去ります。しかし、人には不可能だということは、その反対として、神の現実には限界がないことが意味されているのであります。それ故、神に望みを置く人には、真の慰めと希望があります。

闇に打ち勝つ神の遍在を知る信仰の核心が、12節において歌われています。闇が存在する現実は、昨日も今日も変わりません。しかし、その闇の中で輝く神の光が存在するという現実も変わりなくあるのであります。そのような遍在の神の不変の守りは、いつも私たちにも与えられているのであります。

 

13-16節『神の全能』

そして、詩人はさらに、この神に自分が創造され、母の胎内にあったときから知られていた存在であるという事を知って、神にまったき信頼を寄せて人格的に近づく道を歩む者となりました(13節)。

人間は生まれる前から神に知られている、そして、そのすべてを知り給う全能の御手の力によって自分が創造された存在であると知る創造信仰に目覚める時、その創造信仰おいて、神がすべてを包括し、すべてを知り、すべてを支配し、歴史のどの瞬間も神の現実であり、どの場所にも神は現在されるということを知る者とされるに至ります。人間はそこから神との積極的な関係を獲得することができるようにされるのであります。

この創造信仰において、あらゆる人間存在は自分のものではなく、まったく神のものであり、神なしでいるならば、自分は無なるものでしかないということをはっきりと知るに至ります。

それゆえ、人間は、人間に向けられた神の活動に目を向けることによってのみ、神の本質に近づくことができます。

だから旧約聖書の信仰において、神への問いは、抽象的理論的な神の存在が問題なのではなく、どこまでも神の現実が問題となります。神の現実支配は、実際的な事実の中に啓示される事柄として理解されます。

この詩人にとっては、創造者なる神の全能性の中にこそ、神の遍在と全知を知る鍵があります。時計の製作者が、時計を、時を刻むものとして作り、その仕組みのすべてを知っているように、神は世界のすべてを創られた故に、世界のすべてを知っておられます。その中に存在する生きとし生けるものすべてを知っておられます。

しかし、そのことによって神の本質のすべてが説明され、神の秘密のすべてが明らかにされるわけではありません。神は、被造物にとって、常に隠れた方であります。その様な方として啓示された方であります。それゆえ、神の秘密はどこまでも秘密であります。信仰者にも、その秘密のベールを脱がれるわけでありません。

しかし、詩人は「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(13節)と神を賛美し、告白することによって、神に対し、自分の人生の秘密に対して知る内的な態度を獲得するに至りました。

詩人はこの告白によって、神への畏怖、感謝、信頼を表明しています。わたしは、まさしく神に造られた者であり、創造者である神と無限の隔たりのある存在である、と深く受け止めています。それゆえ、人生においてどのようなことが起ころうとも、それは神の現実であり、それに対し自分の存在を勝手に置き換えることのできないことを知っています。ただ神への畏敬の念をもって神の崇高な神秘の前におののきつつ、自分という存在が母の胎から生まれ出ること自体が神の奇跡として、神を称え告白することができます。だからといって、詩人は神を自分とは隔絶したお方としてのみ見ているのでありません。自分自身の存在が神の創造の奇跡であることを知っているゆえに、自分が神へと近づけられている存在であることを知り、勇気づけられるのであります。わたしの生命は神のみ手の中にある。母の胎内にあるときから、何も知らない幼児のときから、わたしの存在は神の中に隠されていたことを知る者とされたのであります。

それゆえ、この詩の初めにおいて抱いていた詩人の神への恐れの心は、信頼に変わりました。だからといって彼は神のすべてを知ったわけでありません。彼の目には隠れていても神を信頼しているのであります。

15節において詩人は、「秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた」と、神の創造の業は人の目の隠れたところでなされるが、神はそこにもおられる、と告白しているのであります。

彼にとって自分の誕生の瞬間は秘密のベールに包まれたままでありますが、それを神の創造の奇跡として信仰の目で捉え、自分の人生の始まりが「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」と、神の明るい光の下で知られていることを告白しているのであります。彼はこの告白によって自らを勇気づけることが出来ました。そして、「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」(16節)、と知るに至ります。生まれ出る前から神の意志によって予め定められている命への選びに対する信仰を、彼は神の創造の神秘を信仰の目で洞察することによってもつにいたりました。

そして、詩人は自分をその様に計らう神に、尽きることのない感謝と賛美を表しているのであります。彼はその信仰をもって、決して神の秘密をすべて知り尽くそうとその秘密の中へ分け入ろうとはしません。彼は、神がご自身を隠されている限り、知ることのできないほど神が偉大で、無限の存在であることを知らされたからです。また神がご自身を隠しておられる限り、それを探求することが赦されていないことも知らされたからです。神は隠すことにおいて信仰を求めておられることを知らされたからであります。

神への真の信仰は、神に畏敬と信頼をもってその御前にひれ伏し、神が姿を隠されるときにもアーメンと言うことができます。隠れたる神の中に、わたしの生命の源なる力、わたしの人生を決定する唯一の力を認めるからであります。

旧約聖書講解