詩編講解

29.詩篇第38篇『わたしはなお主を待ち望む』

この詩は、「嘆きの歌」に属します。古代教会においては、七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられていました。この詩篇の作者は痛ましい病気にかかっています。6節と8節の言葉から、おそらくハンセン病に悩まされていたのであろうと思われます。祈っている作者自身、この病気を自らの罪に対する神の罰とみなしていました。そして、彼の愛する者も友人たちでさえ、この疫病にかかっている彼を避けて、遠く離れて立ち、彼の病気はやはり彼の罪に対する神の罰とみなしていました。その見方には、このような重い病を、罪に対する主の罰とみなす信仰があります。

しかし、新約聖書の光に照らせば、必ずしも病を罪に対する神の罰とみなすことは出来ません。ヨハネ福音書9章には、「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」との弟子たちの質問に対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられています。

それ故、この詩篇は、あくまで旧約時代における病に対する信仰の見方として理解する必要があります。

この詩篇の作者は何よりも自分の咎の苦しみを神の御前に告白しています。その上で彼は、彼の災いを望む腹黒い敵対者たちの不当な訴えを黙って耐え忍んでいます。彼がそうするのは、ひとえに神の憐れみを信じているからにほかなりません。

自らの苦悩の原因を罪の結果と見ることにおいて、この詩篇の作者は何処までも真摯です。それは信仰において大切な態度であります。しかし、それ故に、彼の苦悩は誰よりも深いものがあります。

わたしの罪悪は頭を越えるほどになり
耐え難い重荷となっています。(5節)

このように言わねばならないほどの彼の苦悩は深いものであります。「越える」(アーバル)は、もともと「氾濫する」という意味があります。それは際限なく積み重ねられるほど重いものでありました。彼は自分の罪を「耐え難い重荷」と感じています。罪は本来重くて負いきれないものです。

彼はそれほど深く自分の罪を見つめ、その罪の重荷に耐え兼ねているのに、愛する者に見捨てられ、親しい友人から遠ざかられ、敵対する者は、彼の災いに不当な非難を一日中浴びせかけていました。体を病むことだけで苦しいのに、それを罪の結果と見る彼の苦しみは、二重の苦しみとなります。更に、愛する者や親しい友人がその事ゆえに遠ざかることは三重の苦しみとなります。さらに、敵対する者の罵りは、立ち上がれないほどのきついダメージを与えました。

わたしの耳は聞こえないかのように 聞こうとしません。
口は話せないかのように、開こうとしません。(14節)
わたしは聞くことのできない者
口に抗議する力もない者となりました。(15節)

こうした理解者のない、理不尽な扱いを受けた者にとって、最後にできることは、周囲の言葉に耳を閉ざし、沈黙することだけでありました。

彼はただ耐え忍びました。彼がそうするのは、ひとえに神の憐れみを信じているからにほかなりません。彼はその苦しみの中で、ただ神にだけ唇を開き、神にだけすべてを訴え、主を待ち望みました。

待ち望むとは、主に対する全幅の委任の態度であります。そのような全幅の信頼の姿勢で主に委ねきる生が、「待ち望む」生であります。

この詩から浮かび上がるイメージは、<苦難の僕>の姿です。彼は神の怒りの下に立ち、まことに悲惨な病と痛みをなめつくし、人に捨てられる孤独の辛さと人から責め苛(さいな)まれ、痛みつけられる生の厳しさを味わいつくしています。しかもなお、彼は黙々と忍耐し、徹底的に神に委ねきり、この神に望みの全てをかけているのであります。

福音書記者ルカは、この詩篇の12節を用いて、十字架の主イエスの孤独な姿を次のように描写しました。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(ルカ23:49)。それはまことに深いこの詩に対する理解を示しています。

神を待ち望む生は、そうした絶望的な苦難の中において、本当に信頼すべきものは何かを自らに問われるのであります。その問いの中で神を見出したものにおいて、それは鮮やかに現されるものであります。「自己に絶望しつつも、なお神に絶望しない」。それは、たとえ絶望する生であっても、神に生かされている現実を知る信仰の認識から生まれる希望の認識であり、叫びとなるのでありあります。

そのような者だけが、心の重荷を祈りのうちに注ぎ出し、苦しみを神の恵みに委ねきることが出来るのであります。そのような苦悩の直中で、人は神との交わりにおいて全てが癒されるよう、大胆に祈り求め、またそのことを待ち望むことが許されていることを、この詩篇の作者は明らかにしてくれているのであります。

彼のその希望の祈りが22,23節において次のように表されています。

主よ、わたしを見捨てないでください。
わたしの神よ、遠く離れないでください。
わたしの救い、わたしの主よ
すぐにわたしを助けてください。

苦難の中で主を待ち望む者の主に信頼して生きる信仰の姿をこの祈りから学ぶことが大切です。

旧約聖書講解