イザヤ書講解

14.イザヤ11章1-10節『平和の王』

11章1-10節は、8章23節b-9章6節と同様に、クリスマスの時によく朗読される、メシアの誕生を告げる預言の一つです。この預言は、イザヤ書の文脈においては、9章1-6節と同じく神的な性質を持つ王に関するものです。イザヤは、7章と9章において、「ひとりのみどりご」の誕生による未来の希望を語りました。イザヤがそのような希望を語らねばならないのは、時代がそれだけ悲観的な状況にあったからです。

7章では、アッシリアの脅威に対して、同盟によって対抗しようというアラムとイスラエルの呼びかけや脅しに屈することも、彼らの恐れるアッシリアに助けを求めることも、結局は、人間の力を頼りにする道で、どちらの選択もすべきではない。恐れず、落ち着いて静かに、主を信じ、主のしるしを求めるよう、イザヤはアハズ王を説得しました。そのしるしとは、インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)という名を持つ子が、おとめから生まれるというものでありました。その名は、主の言葉を信じ、ただ主にのみ信頼する者と共に神はおられ、信じる者に救いを約束するしるしとして示されました。

しかし、アハズ王は、イザヤの告げる主の言葉を聞かず、アッシリアに助けを求めたため、イスラエルはアッシリアによって辱められ、多くの領土を失うことになりました。イザヤは、辱めを受け、暗黒を歩み、希望を失っている人々に向かって、主の熱意による希望の光が与えられ、大きな喜びが与えられることを語りました(9章)。ひとりのみどり児が生まれ、その子が驚くべき指導力を持って、ダビデの王座にすわり、その王国を正義と恵みの業によって治めることにより、王国はとこしえに支えられるという慰めに満ちたメシア預言を語りました。

しかし、イザヤの預言にもかかわらず、これらの預言はいずれも実現しませんでした。この預言を実現するものとして期待されたヒゼキヤは、アハズほど不信仰を示しませんでしたが、同じように人間的な手段や考えにしばしば揺り動かされ、国を主の御言葉に従って堅く立てることに専念する王ではありませんでした。彼はイスラエルを助けるために立ち上がりませんでしたが、ペリシテのアシュドドが中心となってアッシリアに反旗を翻して立ち上がったとき、ヒゼキヤも反乱軍に加わりました。

この時も、イザヤは、アハズのときと同じように、主にのみ信頼するように説きましたが、彼は主ではなくエジプトを当てにして、この同盟に加わりました。イザヤは、エジプトを当てにすることにも警告を発していました(20:1-6)。アッシリアの王サルゴンは711年にこれら反乱軍を鎮圧しました。その時、エジプトは、逃れてきたアシドドの王をあっさりアッシリア側に引き渡してしまいました。アシドドはアッシリアの属州とされたため、反乱に加わったユダはいち早く降伏し、その運命からかろうじて逃れることは出来ましたが、その判断の誤りは、国を非常な危機に陥れることになりました。

11章のメシア預言は今申し上げました背景の中で語られています。
1節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」という言葉は、ダビデ王家が一つの重大な危機にあったことを示しています。「エッサイの株」と訳されていますが、正確には「エッサイの切り株」です。エッサイというのはダビデの父の名です。つまり神に選ばれてイスラエルの王となったダビデの家は、一旦断絶するという事が語られています。それは10章27節後半から34節にかけて記されているアッシリアによるエルサレム進軍と密接に結び付けて語られています。アシドドの反乱に加わったヒゼキヤは、父アハズ同様、誤った人間的決断をし、国を危機に陥れました。イザヤは、侵略者アッシリアも滅ぶべき定めにあるが、主を信頼しないヒゼキヤとその王家も断絶し滅ぶべきであるという考えを表明しています。

そのようにダビデの王家は一度断絶し滅びますが、「ひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育つ」という主にある希望をイザヤは語ります。主に信頼しない王は一度徹底的に引き倒されます。そのようにして肉のダビデの血筋を当てにする信仰は引き倒されます。

しかし、そのことによって、主が約束されたことは失われることはありません。主がダビデの家に約束されたことはいつまでも真実な言葉として残ります。人間の王は当てにならなくても、主の熱意がその約束、救いを実現される、ここにわたしたちの希望があります(9:6)。主は肉を頼みとする信仰を切り倒されます。しかし、肉なる者に、その根から一つの若枝を育てられるお方です。エッサイとは、肉なる者、この歴史を生きる人間を表しています。その人間は、罪に破れ、間違いを犯す存在です。しかし、そのような破れの中にある人間を、神は覚え、顧みられるのです。

エッサイの子孫として生まれる者、「その上に主の霊がとどまる」(2節)といわれています。新しく生まれる王は、霊の受領者として描かれています。イスラエルは危機の時代に、神から霊を授けられた特別なカリスマを持つ士師が、民の救済者となって、特別な軍事的能力を発揮した事を知っています。

しかし、イザヤ書11章が告げるエッサイの根から出る者の上に与えられる霊は、士師記に描かれる人物とは異なる人物を造り出す働きをしています。彼はメシアとして雄々しい戦闘行為能力を与えられるのではなく、「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」(2節)に満たされる人物であることが明らかにされています。3節において「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」と繰り返し語られているように、この霊を受けるメシアは、何よりも、「主を畏れ敬う霊に満たされる」者として、「知恵と識別」「思慮と勇気」を発揮する者であることが示されています。

3-5節に、メシアなる王の活動が明らかにされています。
「目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。」人間の判断は、このような表面に現れたものでしばしばなされ、内に隠された問題や真理を見失う誤りを犯すことがあります。アハズとヒゼキヤの誤りの根本的原因は、表面的な「目に見えるところ、耳にするところ」に頼んだことにあります。そうではなく、「主を知り、恐れ敬う」というところから知恵を働かせていくことの大切さがここで教えられています。

裁判は、公平に行われ、正義が実現すべき場です。しかし、しばしば強者や富める者は、党派を組み、あるいは財力にものを言わせ、証言者を買収して、裁きを曲げることが行われていました。それで、いつも苦しむのは、貧しい者、弱い立場にある者です。真の王は、これらの人を正当に裁き、公平に弁護する者であるといわれています。

また権力を持つ者は、暴力の手段を持ち、人を威圧し、鞭打ち、苦しめることさえしていました。しかし、メシアは、その唇の力で人を打ち、逆らう者を死に至らせるほど、力ある言葉を有するものであることが述べられています。メシアは、逆らう者を死に至らせることができるなら、従う者には命を与える言葉を与えることもできます。

メシアは、「正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる」(5節)者としてその判断に誤りがなく、その判断によって民を救う、といわれています。誤りなき神の言葉は、このメシアと共にあり、このメシアの言葉と結びつく者の歩みに希望と喜びが与えられます。

イザヤは、9章においてこのメシアを「平和の君」と呼びました。メシアは絶えることのない平和を実現するものとして現れると預言しました。平和は、本来、神の下に存在し、神と結ばれて、神と平和な関係に生きる人に与えられるものとして語られています。そしてこの神の平和を人の間にも実現する働きをメシアは行われます。

11章6節以下において、メシアは神と人、人と人との間の平和だけでなく、自然世界の間にも平和をもたらせることが明らかにされています。ここに描かれている平和な光景は、メルヘンの世界にしか実現しそうにない光景のように見えます。しかし、世界創造の原初において、人と自然、人と動物界は敵対する関係ではなかったことを聖書は明らかにしています。人の罪、神のようになりたいという欲望、支配欲が敵対的な関係を作り出したことを明らかにしています。

しかしメシアは、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」(6,7節)素晴らしい自然世界における平和を実現し、もっと大きな宇宙的次元にける実現をも語っています。

この平和がどこから来るか、イザヤは9節において、次のように語っています。

わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。

この預言は、2章2-5節との関連で語られています。その関連で読めば、「わたしの聖なる山」とはシオンの山です。イザヤのメシア預言は、この意味で、救いはエルサレムから実現し、その救いはイスラエルに限られています。主に選ばれ高く天に近くあるシオン、エルサレムこそ、どの峰よりも高く、堅く揺るがない、大河の流れも飲み込むことなく存続するものであり、国々も、多くの民もここに集い救われるのであり、御言葉はエルサレムから発し、剣を打ち直して鋤とする平和は、エルサレムから実現するものとして語られています(2:3-4)。

しかし、このパラダイス的な平和は、王国と結びついた希望として語られてはいません。この平和を実現するメシアは、旧約聖書に登場するどの王とも違います。この預言を語るイザヤ自体、ダビデ王家に対する失望をあらわにしています。普通、人間は、その期待を裏切られ続け、失望ばかり経験しますと、期待そのものを捨てます。しかしイザヤは、その期待を神に向け、イスラエルの聖なる方に向けています。イザヤの向けるメシア像は、旧約のどの王にも当てはまりません。その意味で、この預言も実現していません。

イザヤの告げる平和の王を、ユダヤ人は待ち望みました。ユダヤ教徒は今なお待ち望んでいます。しかし新約聖書は、このメシアの到来をナザレ人として生まれたイエスにおいて見ています。イザヤがメシアをイスラエルにとってだけ意味あるものとして見ようとしていたのを、新約聖書は、全地の王、世界の王なる方として見ています。9節の最後で、「大地は主を知る知識で満たされる。」という言葉や10節の国々がそれを求めて集う、という言葉を、キリストの普遍的なメシア像を示すものとして新約聖書は見ています。

このメシア預言は、救い主として生まれられたイエスが、キリストとして告白されるところでは、正義と平和が問われることを明らかにしています。その告白をする者は、信仰を個人的敬虔の問題として、「心の中」だけの問題としてとどめておく事は出来ません。その告白は、歴史、経済、社会、政治の現実において問われ、神の支配、救いの宇宙的支配に対する信仰告白として表すべきことが問われています。それが、救い主がわたしたちと共におられるということの意味であります。

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