詩編講解

21.詩編第29篇『栄光と力を主に帰せ』

詩編第29篇は、主なるヤハウェの顕現を称える賛美の歌です。
人間の舌は神に帰すべき栄光を帰するには足りないとこの詩篇の作者は感じています。それゆえ、作者は「神の子ら」に向かって、主に栄光を帰せよと呼びかけています。この詩篇の作者の心には、イザヤが召命の際にセラフィムが翼を広げて飛び交い、『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』(イザヤ6:3)と唱えているのを見たのと同じ様な光景が浮かんだのかもしれません。

主の力と栄光は自然を通して啓示され、主の御声は自然現象の中に鳴りひびきます。神の威力は水の上に響きわたり、神の栄光は雷鳴の轟きの中にもあらわされます。4節において、「主の御声は力をもって響き、主の御声は輝きをもって響く」と歌っているように、この詩篇の作者のただ一つの関心事は、神の威力と栄光の啓示にあります。

ここでは、それが恐れとおののきが熱狂的な歓呼とない交ぜになっており、聖書の信仰の本質的な一要素である、神への恐れと神への喜びの間に生ずるあの逆説的な緊張を反映しています。この詩篇の作者は、破滅をもたらす神を受け入れる際にも、祝福を与えつつ人間に対して身をかがめる神を受け入れるのとまったく同じ真剣さで取り組んでいます。

5節は、畏怖をともなう崇高な神の現れを具体的に示すために、山中におけるその働きを述べています。ヤハウェがその声を雷雨の中に轟かせるとき、レバノンの巨木も天にそびえ立つように生い茂っている大杉も砕かれて倒れます。栄光の神のかくも恐るべき威力と比べれば、名高いレバノンの杉の壮麗さもその誇りも取るに足りません。雪におおわれた峰々を連ね、悠久の昔からそびえ立つレバノンとシルヨン(ヘルモンのフェニキヤ語名)の巨大な山脈は、太古以来、地にどっかりと根を据えていますが、神が現れたもうその時、その基が揺れ動き、これらの山々は、子牛のように、あるいは野牛の子のように、ぎこちない足取りで飛び跳ねる、といわれます。

8節に歌われているこうした特徴は、おそらくシナイ山における神の啓示に由来するものでしょう。シナイ山では煙と火と地震をともなって、雷鳴の中から神の御声がイスラエルの民の耳に達した、といわれています。いつもは果てしない静寂に包まれ、人の足の踏み跡もまれな荒野も、ひとたび栄光の神の恐るべき声が響くとき、震えおののきます。

主の御声が雷鳴の轟きの中にあらわされるとき、臆病な雌鹿は、驚き陣痛に見舞われ、月足らずして子を生むと言われています。しかし、このように地上に不安や驚愕をもたらすのと同じ力が天上では「栄光」なのであります。人は破局をもたらす神においても、崇めるべき栄光の輝きを認めるとき、畏れを克服することができるのであります。

主はその御座を天上に置かれるので、天上における神の栄光は、地上で起こる時々刻々と変化するいっさいの出来事から何の影響も受けることがありません。

ノアの洪水や出エジプトにおける葦の海での出来事のごとく、主は今もなお混沌の力に対する勝利者として崇高な静けさのうちに座しておられます。それゆえ、信仰者は、地上の万物を絶えず脅かす恐るべき出来事や破滅に臨んでも、天上の永久の王であられる神を仰ぎ見、この神に望みを置き、この神にすべてを委ねることによって立ち直ることができるのであります。地上の激変の真っ直中においても注ぎ込まれる神の聖なる憩いが、天よりの慰めとなって新たな勇気を生み出してくれるからであります。

この詩篇の作者は、この賛美の歌を、民のために力と祝福とまったき救いを求める祈願によって締め括っています。祭儀の中心点は、あくまでも神顕現にあります。

祭儀に参加し神を礼拝する者は、かくも力ある神にまみえ、その御手から力と祝福とまったき救いを祭りのたびごとに受け取ることを許されているのであります。しかも、それがどういうことであるかを民が自覚しているという点において、旧約聖書の信仰の活力が込められているのであります。活ける神の御手に陥ることは実に恐るべきことであると彼らは感じています。しかし、人間を支え人間に救いを与えうるのもこの御手以外にないことを彼らは知っています。旧約聖書に見られる信仰の真摯さはこの超然たる神観に深く根ざしています。かくのごとく超然としておられる神が約束したもうゆえに、その約束は必ず成就する。何人もこの神の命令から免れることができない。たとえ世界が滅び山々が海に没しても、人はこの神により頼むことができる。これが、旧約聖書の信仰であります。それがこの詩篇の詩人が表明した信仰であります。

そして、地上の平和に対する希望は、この力ある神に望みを置き、その恐るべき栄光の前に平伏し、栄光と力を主に帰して礼拝する者に与えられるのであります。この詩篇の作者は、その確信に立って、それを祈り求めて、この詩篇を結んでいるのであります。

旧約聖書講解