イザヤ書講解

18.イザヤ書24章1-23節 『世界審判と主の王国の開始』

24-27章は、イザヤの黙示録と呼ばれています。13-23章にかけて記された「諸国民に対する託宣集」が終わり、この章から新しい主題が始まります。この部分の著者は、イザヤではないという見方が今日の聖書学者の一致した見方です。「イザヤの黙示録は、ペルシャ支配下のイスラエルが耐えぬいた『出来事の少ない時代』からの、エルサレム共同体の信仰の素晴らしくまた感動的な証言なのである。中心としての重要性を失ったエルサレムのある属州ユダとその支配領域のヤハウエを崇拝するものたちの群れは、世界帝国の終わりとその運命の全き転換を表す、彼らの神の王的支配についての構築についてあえて語ったのである。」(H・ヴィルトベルガー「神の王的支配」)という見方が現代の聖書学の立場からなされています。

「イザヤの黙示録」が「諸国民への託宣」(13-23章)と接合され、その後に置かれることによって、新たな価値の転換、「終末の事柄」の光の中に、これらの使信が置かれることになりました。その結果、ヤハウエの王的支配は、世界的規模で、大地とそこに住む住民全体に及び、諸民族の世界にも及んでいることを明らかにすることになりました。イザヤは、主の言葉に聞かず、背信の罪を犯すユダとエルサレムに、主の審判の不可避なことを語りました。イザヤと同時代の預言者も、彼以後の預言者も、同じように語りました。そして、その預言どおり、前587年にエルサレムは陥落し、ユダ王国は、バビロンによって完全に滅ぼされることになりました。これによって、審判預言を語る預言者の活動は一度完全に終結することになります。

それ以後の預言は、その性格において根本的な変化を経験することになります。主の審判が実現した現在、それを語る必要がなくなったからです。それ故、預言の新しい課題は、ユダ王国の復興と、エルサレムの再建がいかにしてなされるか、となりました。この課題を担った預言に捕囚の民に向けて書かれたエレミヤの手紙や、エゼキエル書などがありますが、エルサレム再建の道を示す点で、イザヤの黙示録も、その中に属していると考えられます。

これらの預言は、エルサレム陥落の理由を反省し、その審き手としての役割を担ったバビロンの滅亡を預言し、イスラエルの復興の可能性を指し示しています。エルサレム陥落の理由とイスラエルの復興の可能性は、コインの裏表の関係で、御言葉に聞くことの失敗と、そのことの深い反省、悔い改めにより、御言葉に立ち帰ることであることは、イザヤの語った預言から明らかです。それゆえ、イザヤの黙示録を書いた、無名の預言者たちは、イザヤの預言をその時代にあって新しく解釈し、裁きの言葉を救いの言葉として聞く信仰を人々に求め、その希望の中で立ち上がらせようとしたことにおいて、重要な働きをしています。

さて、本章は三つの部分に分けることができます。1-13節は「世界審判」についての預言です。14-20節は「その審判の不可避性」についての預言です。そして21-23節は、「バビロンの終焉と主の王国の開始」についての預言です。

1-6節までは、ホセヤ書4章1-10節と内容が良く似ています。或いはそれを前提にしているようにさえ思えます。7-13節はヨエル書1章10-13節、或いは哀歌5章11-15節等が反映している感じが窺えます。

16節後半から18節前半の描写は、アモス書5章19節に見られる主の日のきたらんとする審判から誰も逃れえないと述べる下りによく似ています。23節の主の日の光景は、出エジプト記24章9節以下に見られるように、主がかつて契約締結に伴ってシナイ山でその民の長老たちの前で、全き光に包まれてご自身を啓示されたように、主はその契約が未来を貫くものとして堅くするために、もう一度イスラエルの長老たちの前にご自身を現されると語られています。

このように24章全体は、この預言者がそれ以前の預言或いは神の救済の出来事をつぶさに調べ、現在見られる或いは近く見られるであろう神の審判に備えて、相応しく民を整えさせようとの願いを込めて語られています。その場合、イザヤや他の預言者たちの言葉、また歴史において現された神の審判から学ぼうとするこの預言者は、これら全てを見通せる時代を生きていることになります。

預言者が特に学ばなかった教訓とは何か、それは前587年におけるバビロン捕囚という悲惨な出来事です。しかし、それさえ、彼の時代では来るべき神の審判のしるしです。この預言者はそれらのことを思いながら、不信仰故に審かれた過去のイスラエルの歴史を振り返りつつ、未来の、真のイスラエルの在り方を、神の審判を語りながら、民に探らせようとしているのです。

しかし、ここに語られている言葉は、何時、どの様に起こるかについて、多くは曖昧にされたままです。預言者は曖昧に語ることによって、民の真実の信仰を期待しているのかもしれません。或いはそれが神の御心として示されたのかもしれません。これが「黙視」といわれるのは、多くの謎がこの使信に含まれているからです。

預言者は先ず、この世界審判が主によって下され、主の預言に基づいてなされる未来に関するものであることを明らかにします。主の審判が下るとき、それは未曾有の仕方で地に訪れ、その破局は全ての宗教的・社会的特権を無に帰し、社会的地位や貧富の差は消滅するといわれます。なぜそのような審判がなされねばならないか、5節で「地はそこに住む者のゆえに汚された」ことが理由としてあげられています。それは民数記35章33節によれば、血を流した罪であり、エヤミヤ書3章2節によれば、人妻の姦淫の罪であり、エレミヤ書3章9節によれば、偶像崇拝の罪であります。その際、民数記35章33節は、血によって汚された大地は血を流した者の血によらなければ贖いえないことを明記しています。ここでは血を流された罪が問題にされ、また全人類に妥当する契約が関心の対象とされていますので、創世記9章1節以下のノア契約のことが問われています。

契約が破られると呪いが伴うことは、自明のこととして語られています。ここには、罪を犯した者は贖われないかぎり、罪の結果たる処罰は下されねばならないし、その事は罪の下にある人間を苦しめることになることが明らかにされています。

預言者はここで、戦争の噂やその開始を告げる鬨の声をしばしば耳にして、主の律法の道を踏み外す、悔い改めない祭司や民たちの堕落した姿を見て、ホセヤの預言が成就するときがきたと確信して、この預言を語ったのかもしれません。しかしここで下される主の審判は、戦争のことが考えられているのではありません。それは、旱魃による飢饉です。ぶどうのつるは枯れ、そのため楽しみにして待っていたぶどう酒はなく、楽器を手にして陽気に踊る人の楽しみは奪い去られ、町は荒れるに任されるという悲惨な破局が語られています(7-9節)。しかし、この旱魃でも、6節において「わずかの者だけが残された」という唯一の希望が語られています。そのさばきの中でも、選びの民を守ろうとする主の熱心が示されることが語られていますが、これもイザヤの召命のときに聞いた聖なる「切り株」(イザヤ書6章13節)預言の成就として語られていると考えられます。

14節から16節前半は、釈義家の間で大きく意見の別れるところです。これを純粋な未来預言と見なす者、人々が歴史を転換する救済の行為が到来したと思って、直ちに歓声を上げたが、しかし結局は早すぎたことを描写していると見なす者とがいます。

いずれの解釈も可能だと思いますが、16節の後半から20節にかけては、預言者自身の言葉と思われます。そこに語られる徹底した審判、それを免れる者のない厳しさは、最初の審判に比べることが出来ません。最初の旱魃では、「わずかの者がけが残される」ことを期待できましたが、この宇宙秩序さえ破滅させてしまう審判の前には、地は倒れて、再び起き上がれないといわれています(20節)。

しかし、これは文字通り受け取られるべきかどうか、21節以下の預言を見てみないと結論をくだすことができません。18節後半から20節にかけて、人の罪の重さが創造の秩序を混沌に帰すような形で主の訪れを告げますが、しかし、世界と歴史とはそれで実際に終わるのではなく、反対にその時はじめて永遠に存続する世界と歴史が出現すると、21節以下に語られています。

21-23節の託宣は、主と並び立ち、主と敵対しようとする宇宙的・地上的諸権力の滅亡が語られていますが、その権力とは具体的にはバビロンのことが考えられています。ユダとエルサレムの罪を裁くために主はバビロンを用いられましたが、バビロンがその役割を超えて、ご自分の民を苦しめるものとなった時、そのバビロンも裁かれることが13章において明らかにされていました。そのバビロンによる審きは、次のようになされると預言されていました。

バビロンは国々の中で最も麗しく
カルデア人の誇りであり栄光であったが
神がソドムとゴモラを
覆されたときのようになる。
もはや、だれもそこに宿ることはなく
代々にわたってだれも住むことはない。
アラブ人さえ、そこには天幕を張らず
羊飼いも、群れを休ませない。(イザヤ書13章19-20節)

ここでは21節において、「その日がくれば、主が罰せられる」と述べられて、ペルシャのキュロス王によるバビロン占領の時(前539年)に起こる主の審判について言及されています。かつてバビロンがユダとエルサレムの住民にしたように、罰せられ裁かれることが語られています。そして、最後のところで、エルサレムと長老たちに対する救済の告知がなされます。地上的出来事としては、ユダとエルサレムの審きは、バビロンを通してなされ、その救いの解放者はペルシャですが、いずれも「主が罰せられる」業であることが明らかにされていることが重要です。主は御言葉の約束に従い、聞き従わない者の罪を歴史の支配を通して審かれますが、また、この裁きに苦しむ者に、「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。」(イザヤ書13章6節)というメッセージを送り、現実にその辱めるものを歴史の中で辱め、辱められたご自分の民を救われる方であることを、明らかにしておられます。

24章は、一方で神の審判の不可避なことを語りつつ、それまで地上では主の民とその指導者たる長老の苦難の不可避なことを語っています。神の審判は正しき者にも悪しき者にも及びます。しかし、その審判は逆転して、イスラエルを裁くものに向けられ、太陽の輝きさえも恥じ入るほどに、そのものに向けて完全になされると語られています。その審きは神の栄光を輝かすものとしてなされるといわれています(23節)。エルサレムと長老たちの前で輝くその光は、神の栄光の光である故、都には照らす太陽も月も要らなくなります(ヨハネ黙視録21:23)。

このイザヤの黙視録には、メシアに関する預言がありません。しかし、救いは、審く主によってもたらさられると告げられるだけで、この時代の民には十分だったと思われます。既に、モーセの時代におけるシナイ山でモーセとその民の長老たちが栄光に包まれた姿を知っている者は、それが主の契約の批准に伴う出来事であることを示していることが理解できたからです。したがってこのしるしは、その契約である主の御言葉にしたがって歩むものに与えられる恵みであるということを知ることが出来たからです。

この御言葉は、一度罪に破れたが、しかし苦難の中で悔い改め、主の御声に聞き従う者となった者の道を、主がご自分の栄光で包み込み、祝福されることを示し、あらゆる時代に生きるものに希望を与えています。そのことを覚えてどのような苦難の中でも、また一度罪に破れた歩みをした後でも、悔い改め、主に立ち返って御言葉に聞き従う者となるようにと、今もわたしたちを招いてくれています。

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