ルツ記講解

2.ルツ記1章19節b-2章23節『主の御翼のもとに逃れて』

ルツ記1章1-18節までは、ベツレヘムからモアブへ、そして、モアブからベツレヘムへ向かうナオミの姿が描かれていました。1章19節から、ベツレヘムにおける出来事が記されています。

飢饉のとき、夫エリメレクと共にモアブに行ったナオミは、そこで食べ物を得ることはできましたが、夫も二人の息子も失いました。その不幸を「主の御手がわたしに下された」(1章13節)と信仰的に受け止める心をナオミは一方で持ちあわせていました。しかし、その心の底には、そのような目にあわす主に対し抗議する思いももっていました。1章19節以下には、ベツレヘムに帰った時に、女たちが自分の名を呼んで歓迎の呼びかけをしたのに対して、彼女は、「ナオミ」(「わたしは快い者」の意)と呼ばず、「マラ」(苦い)と呼んでくださいと答えて語る、20-21節の言葉に、その抗議の思いが明らかにされています。

全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。
なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。

ナオミは、このように主に向かって抗議の言葉を口にしています。しかし、また、このナオミが不幸の原因を神に帰すとき、その言葉の裏には、自分の生を支配する神への信仰が秘められています。「主がその民を顧み」(1章6節)という神の摂理的支配がはじめられていることに、ナオミはまだ気付いていません。

出て行くときは、満たされていたわたしを
主はうつろにして帰らせたのです。

とナオミの抗議する思いはとても強い。「うつろに」は、3章17節の「手ぶらで」と同じ語が用いられています。ナオミの嘆きは深く大きいのですが、彼女に付き従うルツがこの悩みを解決させ、嘆きから喜びの生へと逆転させることになります。「帰る」は、4章15節では、「生き返らせる者となり」と逆転させられる、鍵語となっています。「主がわたしを悩ませ」は、70人訳聖書を採用した訳でありますが、ヘブル語聖書では、「主がわたしに不利な証言をされ」となっています。ナオミは、全能者によって、「ひどい目に遭わされ」「不幸に落とされた」と感じていますが、モアブ生まれのルツによって、逆転を経験することになります。それを暗示するように、二人のベツレヘム帰還のときが、「大麦の刈り入れの始まるころであった」と語られています。大麦は、最初に実る穀物でありました。それゆえ、収穫のはじめを意味し、収穫の季節に帰郷するという幸先のよさを暗示しています。

そして、その不幸な人生を逆転させるのは神ですが、その器として用いられ、働くのは、ボアズです。彼の名には、「力がその内にある」という意味があり、この物語で果たす彼の役割を暗示する名であります。ルツは、ナオミに、「だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」(2章2節)とといって、ボアズの畑に出かけます。「厚意を示してくださる方」の原意は、「その人の目の中に好意を見つける」です。

ナオミの「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」という嘆きは、ボアズの目の中に好意を見出され、慰めを与えられ、希望へと変えられていきます。ボアズがナオミの夫エリメレクの有力な親戚で、ルツが出かけていった畑が、3節で「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」といわれていますが、それは「たまたま」という偶発的出来事ではなく、神が背後にあって働いておられます。

貧しい者、寄留者、孤児、寡婦のための「落穂拾い法」が、レビ記19章9節に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」と定められ、申命記24章19節にも、「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」と定められていましたので、落穂を拾うことは、貧しい人の権利として認められていましたが、実際には、畑の所有者しだいであったといわれています。この場合、熱心に落穂を拾うルツがボアズに見出され、彼の計らいで多くの落穂を拾うだけでなく、彼を通して神の恵みをすべて享受することになります。

熱心に、けなげに働くルツの身の上話しを聞き、目をかけ配慮していく慈愛深い態度をとるボアズの姿は、感動的でさえあります。

ボアズは、「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(2章12節)とルツに告げていますが、主の「御翼」の役割を果たすのは、ボアズです。後に、ルツは、ナオミから、このボアズこそ家を絶やさぬ責任のある人物であると知らされ、彼の衣の裾で身を覆うように(3章4節)との言い付けを聞き、ボアズの衣の裾の中に身を横たえる実に大胆な行動を起こします。そして、まさにボアズの衣の裾こそ、主の「御翼」の役割を果たすことになります。

ボアズの「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(2章12節)という言葉を聞いて、ルツは、「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」(2章13節)といっています。神の恵みと祝福が、ボアズの示す自由な、無償の愛による行為の中に示されています。ボアズは、若者に命じ、ルツがいくらでも落穂を拾えるように便宜を計らせます。この日1日でルツが拾い集めた落穂の量は、1エファであったといわれています。1エファは、約23リットルです。姑のナオミは、その量の多さに「目を見はった」といわれるほどです。それは、本当に想像に絶するほどの落穂の量でありました。

神の恵みは、このように想像を絶するほど多く与えられます。

ナオミは、ルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」(2章19節)と言うと、ルツは、「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」と答えています。ナオミは、ルツの報告を聞いて、意気消沈していた心を再び強くします。

ナオミは、「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」(2章20節)と語ります。「慈しみを惜しまれない主」は、「慈しみを捨てない主」が原意です。ナオミはこの祝福の言葉によって、「慈しみを捨てない主」による恵みによる権利回復の道が、ボアズを通して与えられることを確信します。そして、「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」(2章20節)とナオミは、ルツに告げます。

2章には、「目」という言葉がよく出てきます。10節と19節に、ルツとナオミのそれぞれに記されている、「目にかけ」たというボアズの視線は、なんとなく目にとまってみるというのではなく、注意して見る、認めることです。それは、まさに神の視線を示す言葉でもあります。この視線を受けている者が、その事実を感謝し受け止めるところから、喜びが生まれ、希望が生まれます。そして、この視線が注がれているところにとどまるものに、豊かな祝福が用意されます。

2章の結びの23節は、穀物の収穫の全期間そこに止まった事実を報じて終わっています。恵みが現される場所を決して離れよういとしないルツの強い決意、態度がそこに表されています。ヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」といって主と格闘し、勝って、イスラエルの名をもらいました(創世記32:27-29)。ナオミとルツの信仰もまた、イスラエルの信仰をあらわしています。そして、カナンの女は、執拗に主の哀れみにすがりつき、主イエスから、「あなたの信仰は立派だ」(マタイ福音書15章28節)というお言葉をいただいています。

わたしたちの現実の信仰生活は、信仰さえあれば何でも、この物語のルツのようにうまくいくとは限りません。そこには、ナオミが経験したように、飢饉もあれば、愛する家族との次々に死別しなければならない現実もあります。その結果、ますます生きる手段や、権利さえ失うこともあります。しかしそれでも、主に約束された恵みとしての権利を行使できる場所が、ナオミには「ベツレヘム(パンの家)」にありました。ナオミは、その場所で、嫁のルツの働きを通して救いを経験していきますが、そのルツが行使したのは、一番貧しいものに約束され、保障されている「落穂拾い」という労働の権利でした。現実には、その権利は畑を所有する人の考えによって左右されることもありました。しかし、神から与えられた権利にしがみつき、「だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落穂を拾います」といって、その働きの場を離れようとしないルツに、神は相応しい形で恵みを与えられます。「厚意を示してくださる方」の原意は、「その人の目の中に好意を見つける」ことであると申し上げましたが、神の恵みは、奇跡的に現されるとは限りません。神の約束と関わる「その人の目の中に好意を見つける」という手段もしばしば摂理的導きの中で取られて現されることもあります。こぼれる落穂の恵み、それにしがみつくものに与えられる神の慈しみの御手、「主の御翼」の守りは、思いがけなくわたしたちの人生に用意されているものです。新約時代のカナン人の女は、ルツと同じように異邦人の女性でしたが、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくものです」(マタイ15:27)といって、主イエスからその恵みに与りました。

この物語は、イスラエル(教会)に約束されている神の恵みによりすがり、その御翼の下に身を寄せ、注がれる主の御目の下を離れようとしない者に、主は計り知れない恵みを注がれるお方であることを指し示しています。わたしたちにもまた、そのようなものとして、大胆に主のみ翼の下に、降り注ぐ主の愛の眼差しから離れないで、いつまでもそこに止まり続けるものとなるよう、主は望んでおられるのです。

旧約聖書講解