ホセア書講解

26.ホセア書14章2-10節『真の神礼拝と悔い改めへの招き』

この断片は、イスラエル王国崩壊後の回復と祝福について語られているという理解から、ホセアの預言でないという解釈をする者もいるが、この断片の成立した正確な時期について、確実なことは何も言えない。またその内容も、前721年のイスラエルの崩壊の後に作られたことを示しているとはいえない。もちろん、ホセア以後の編集者の手によって書き加えられている部分は、いくつか見られる。

ホセアは、ここで6章の初めと同じく、悔い改めの儀式文の様式を用いている。そして、ここには、預言者が語った要求に対応した悔い改めが語られている。ホセアが祭儀式文を採用しているということは、彼がその存在を知っており、それを肯定的に受け入れていることを意味している。しかし、ホセアの時代のヤーウェ祭祀は、本来の祭儀のあり方から逸脱し、異質なものとなっていた。ホセアは、その祭儀をめぐって闘っていた。カナンの地盤から生まれたのは、物質的な犠牲の祭祀であった。その影響を受けた犠牲の祭祀を中心とする祭儀が、ヤーウェ礼拝の名の下に執り行われていた。だからホセアは、これとは別の基盤の上に、ヤーウェ祭祀を根拠づけようとする。それは、言葉を中心とする祭祀である。そして、そこからヤーウェ礼拝における本質を明らかにし、真の悔い改めと、真の信仰の道を、明らかにしようとしている。

この単元は三つの部分からなっている。

第一は、2-3節前半で、悔い改めと立ち返りへの勧告である。

第二は、3節後半-4節で、民による悔い改めの祈りである。

第三は、5-9節で、救いの約束としての神の応答である。

 

①悔い改めと立ち返りへの勧告

ホセアは、咎を指摘し、悔い改めと立ち帰りの勧告を行なわずして、救いの告知を行なうことができなかった。たとえ、民が自らの力で立ち帰ることができないと分かっていても、ホセアは悔い改めを呼びかけざるを得なかった。悔いる思いの中で働く罪意識の厳しさなしには、神の恵みは、本当の意味で人間に作用しない。罪の自覚と悔い改めとは、ヤーウェの言葉の真実に対する恐れと、信頼への目覚めの中で生まれることを、ホセアは知っていたからである。「悪の中にいる」罪の悲惨さを自覚できない民に向かって、ホセアはその現実を指摘し、主のもとに立ち帰ることだけが、その悲惨から免れる得る唯一の道であることを指し示す。その呼びかけ自体が、既に神の恵みの救いを示している。

「誓いの言葉を携え…言え」(3節)という促しは、明らかにカナン的な動物犠牲の供え物や、田畑から取られる作物の捧げものと区別された、信仰の献身のあり方を示唆している。「言葉」というのは、「祈り」のことである。ホセアは、ここで信仰の内面的なあり方を問うている。犠牲祭儀の物質性は、祈りの霊的形式、神への真の献身を不要にしていた。感覚的物質的祭祀によるヤーウェ礼拝は、神と人との人格的な応答を持たなくても、儀式的な行為によって自らの贖いはなされているという、御利益信仰へと傾斜していた。しかし、ホセアは、ヤーウェ信仰の持つ本来備わっている霊的・内面的なヤーウェへの信頼のあり方から、言葉による罪の告白と、悔い改めへの誓いとによる、献身の礼拝の回復を民に勧告している。

 

②民による悔い改めの祈り

ホセアは、一般的な祈願に続いて、個別的な罪を掲げて、その罪から遠ざかることを民に勧めている。4節には、実際イスラエルを陥れた、三つの具体的な罪が語られている。危機に際して、人間的な知恵でアッシリアと契約を結んでそれを免れようとしたり、エジプトから手に入れた軍馬に乗って闘う軍事力の強化を図ろうとすることも、自分の手で作ったものを神とする偶像礼拝も、ヤーウェへの信頼ではなく、自己の力により頼む生き方であった。特に偶像を造ることは、自己の願望実現に神を仕えさせる、逆立ちした信仰のあり方であったといえる。だから、ここでホセアが求めた悔い改めは、政治や祭祀を利用して、自己の力により頼もうとすることではなく、それを放棄し、神への無条件の信頼と献身に生きることであった。ホセアは、これらの悔い改め祈りの言葉を民が捧げ、実際そのような神信頼に生きる信仰を口で告白してあらわすところに、真のヤーウェ礼拝の回復があると確信していた。

 

③神の応答

真のヤーウェ礼拝においては、祭儀で祭祀や預言者の口を通して伝えられる神託の言葉が伝えられる。それに応答する罪の告白の祈りによる献身が、民の側の礼拝参与における重要な要素となる。そして、民の祈りに続いて神の救いの約束、神の憐れみが告げられる。5-9節において。それが示されている。

「いやし」という言葉が、イスラエルの堕落を、病とみなしている。このいやしによる救いは、神の愛に起源をもっている。このいやしは、民の悔い改めの祈りに対応するようになされるかのように告げられているが、それに先行して「立ち返れ」と預言者を通しての神託がある。いやしは、その神の答えである。救いは、どこまでも神の愛に起源をもつ。神は、自発的な民の悔い改めの行為を待つことなく、その愛を贈られる。だから、救いはどこまでも神に由来し、神に基礎をもつ。救いは、神の自由な創造であり、恵みである。

「わたしの怒りは彼らを離れ去った」という言葉をもって、6節以下に、恵みへの転換が示されている。「露」は、雨の降らない乾季を迎えるパレスチナ(5-10月)においては、植物に驚くべき実りをもたらせる。夜のうちにふる露のように、イスラエルにとって、ヤーウェは生命を与え、生命を維持する力である。カナンの大地に恵みをもたらすのは、バアルではなくヤーウェである。ヤーウェの愛の豊かさは、大地にも及ぶ。イスラエルの栄光は、大地に根を張ったレバノン杉のように確かで、その美しさはオリーブのようであり、放つ香りはレバノンの香りと比べられるほどであるといわれる。

8節の「その陰に宿る人々は」は、正確には「わたしの陰に住む者は」となる。この言葉は、民がヤーウェの下に立ち帰るのは、ヤーウェの恵みが先行してあることを示している。差し向けられるヤーウェの恵みに、身を委ねて生きること、それが悔い改めの真の意味である。ホセアは、ここでも2章23-24節と同じように、農夫に与えられる祝福のように、神の恵みを描写する。祝福は、ヤーウェの守りのうちにある確かさ、によってもたらされる。労働とその成果は、ヤーウェの守りによってはじめて享受することができる。

9節の「あなたは、わたしによって実を結ぶ」という言葉が、それを裏付ける。ヤーウェは、恵みの神として、イスラエルにおいて認められることを願う。この独占的な恩恵の主張によって、ヤーウェは、唯一の神であることを主張する。ヤーウェが、あらゆる恵みを提供する神であるなら、バアルのような豊穣神やその祭祀が、イスラエルにおいて存在するはずがない。イスラエルは、この神の恵みの中で、罪と堕落から守られている存在であることを知らねばならない。だから、民が再び立ち直るということは、外的な生活状態がよくなり保証されるということ以上のことが意味されている。内的な神との関係の確立が含まれている。

ヤーウェは、「わたしは命に満ちた糸杉」という。常緑樹である糸杉は、常に命にみなぎっている「命の木」の比喩として語られている。ヤーウェは、その糸杉のように命がみなぎる「命の木」であるといわれている。民の生は、外的にも内的にもその命の木から与えられる「実」で命をみなぎらせることができる。その命は、ヤーウェの語る言葉であり、ヤーウェの言葉に従う者に結ぶ実としてある。

「あなたは、わたしによって結ぶ。」この言葉に、わたしたちの真の慰めがある。破局と滅亡の中にあっても、このように語りかける神のもとに立ち帰るよう、ヤーウェは、ご自身の命に与らせようと、常に心を砕いているのである。「わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する」といって、その不変の愛を注いでおられる。真の悔い改めの信仰の第一歩は、この愛に目覚めることである。

10節は、「知恵の言葉」の形式による結びである。この部分は、ホセア書全体を纏める言葉として、後に書き加えられたもので、明らかにホセアの言葉ではない。預言者の言葉を肝に銘じて、神の言葉から踏み外すことのないように、との警告のために記されている。しかし、それだけに、神の言葉(意志)をないがしろにして、破滅を経験した民の、深い反省から出た警告である。預言者を通して現される、神の歴史支配の現実を見て、今もこの言葉によって生かされている、神の活ける支配を、信仰の目で見届けよ、との積極的な評価が見られる。

ホセア書は、2-3章にある、神の愛による回復が中心である。この14章も、罪の下にある人間を裁くことが神の目的ではなく、その者の回心と救いこそが、変転する歴史の中に潜む、神の愛の意志の目的であることを示している。神の恵みに対するこの希望、その救いの意志を貫徹される神の力への信頼、これらが悔い改めの力となる。そして、ここで示される、神の開かれた愛の御手を見出すことができる信仰は、ルカ福音書15章において語られている放蕩息子の譬において語られている、弟息子の立ち帰りの信仰を指し示している。その悔い改めを待つ神の愛を指し示し、ホセア書は閉じられている。

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