エゼキエル書講解

14.エゼキエル書15章1-8節『役に立たぬぶどうの木』

14章12―23節において、厳しい主の審きが語られる中にも、「残りの者」によって与えられる慰めが語られていましたが、ここでは、再び、神の言葉として、エルサレムに対する厳しい審きが、バビロンの捕囚民に「役に立たぬぶどうの木」の譬えで告げられています。神の選びによって主の民とせられたイスラエルについて、旧約聖書はぶどうの木に譬えて語ります。その場合、神の恵みを結ぶ実として期待されているイスラエルについて語られることがほとんどで、ぶどうの木の木材としての価値が論じられることはありません。誰もぶどうの木が木材として価値を持つとは考えません。ここでは、イスラエルの罪を認めさせるために、寓話という方法がとられています。寓話は、教訓的な内容を、他の事柄にかこつけて評した、たとえ話です。預言者たちも、聞き手の罪を認めさせるために、寓話を用いました。

イザヤ書5章1-7節における、「ぶどう畑の歌」は、良いぶどうが実るのを待ったのに、実ったのは酸っぱいぶどうであったという、農夫として育てた神の、エルサレムとユダの人々に対する嘆きが歌われ、神の期待に反するエルサレムとユダの人々に対する審きを告げています。

エレミヤ書18章1節以下には、陶器師が、自ら作った陶器が気に入らなければ、自分の手で壊し、それを作り直すように、主もイスラエルを手中にあるものとして同じようにするとの教示の言葉が述べられています。

ぶどうの木を木材として用いようと考える人はいません。従って、ぶどうの価値を木材としてはかる人はいません。ぶどうの価値は、その木がどのような実を結ぶかによって決まります。預言者たちは、主の民の堕落を咎めようとする時に、実を結ばぬこと、あるいは、期待に反して腐ったり、収穫が乏しかったり、未熟な実しか結んでいないことを、強調しました。

ぶどうの木であるイスラエルが、主の期待にふさわしい実を結ばないままであり続ける時、最後には、引き抜くという結果にならざるを得ないことが告げられています(ホセア10:1,2、イザヤ5:1以下、エレミヤ2:21)。

詩編80編には、イスラエルが、エジプトから移植されたぶどうの木として、場所を整え、根づかせ、豊かに実を結ぶ存在とされる祝福に与っていたのに、敵によって石垣を破られ、食い荒らされている現実を嘆く言葉が述べられ、もう一度ぶどうの木を顧み、御顔の光を輝かせ、わたしたちを救ってください、と歌われています。

この詩編に表れる民と、選び主である神との理想の姿を、イスラエルは見誤り、己を理想化し、自己称賛に陥る逆立ちした歩みをしていました。そのような主の選びの歪曲こそ、この役に立たぬぶどうの木の寓話が撃とうとする大切なポイントです。

ぶどうの木は、木材として何の価値もなく、その観点から見ると、あまりにみもみすぼらしいものです。その価値のないぶどうの木に、火がつけられて両はしを焼かれ、真ん中も焦がされ、そこから取り出してきたものは、「もはや何の役にも立たない」(5節)と結論付けられています。

この場合、火に燃え落ちた木材の両端は、サルゴンによる北王国の破壊(前722―720、指導者層を強制移住させ、異民族をサマリヤに入植させる強制混血策を実施。これを「失われた10部族」と呼ぶ)、ネブカドネザルによるユダの捕囚や領土縮小のこと(前597年のバビロニアによるエルサレム占拠と第1回捕囚)が言われていることは明らかです。少し焦げたその真中は、まだ保たれている国の残りとその首都エルサレムのこと指しています。

役に立たぬぶどうの木となったエルサレムとその住民は、匠である神の手中の道具となろうとはしませんでした(6節)。彼らは「自分たちは美しいのだ、主の特別な祝福を受けている民だ」と誇るこの自己称賛をして生きていました。その愚かな民の生き方を、エゼキエルは、ぶどう材にたとえて、主の道具として無価値となってしまった現実を明らかにします。

ぶどうが木材として役に立たぬことが、神に役立つことを拒む、エルサレムとユダの人々の姿にたとえられ、彼らはそのようにして神の選びの優位を自ら明らかにした、閉鎖的な共同体としての一致団結した振る舞いをし続けたものであることが明らかにされます。ぶどうの木が木材として無価値なように、イスラエルは、他民族に比べて優れた資源も軍事力も貿易力も持ち合わせてはいません。エゼキエルのこの点でのイスラエルに対する評価は、ただ主の恵みと憐れみによる選びだけが、彼らを特別な祝福に与らせる根拠であることを明らかにする申命記7章の勧告の言葉と同じところに立っています。

神は、ご自分の選びの民に、恵みをもってその御顔を向けておられました(7節)。しかし、その信頼にこたえる主の御言葉に聞く歩みをせず、主の信頼を裏切り続けていたユダとエルサレムに対し、主は怒りを向けられます。これまでは神の忍耐によって滅亡から守られていた残りの人々もまた、審きの炎に包まれ、焼き尽くされることになる、と言われます。

しかし、捕囚の人々にとっては、そこから契約の神についての新たな認識が生じることになります。主の期待は、律法(御言葉)によって表されていました。主の民がぶどうの木であるのは、その木材としての価値ではなく、御言葉に聞くものとして相応しい実を結ぶ民の歩みをすることです。その認識への開眼です。その認識に基づいて、神の審きと審きに表される神の救いの意思を受けとめ、悔い改め、遜って神の言葉を受け取るものとなる新たな認識への道です。神が、実を結ぶ民として生きる者に、恵みをもって答えてくださる、との信仰のへの道です。

エゼキエルは、偶像崇拝や律法違反の逸脱が、主に対する信仰が内側から崩れ去り、逆立ちしていたことに注意を向けます。イスラエルの民の優位は、その神与の優れた選びに基づくのであって、決して彼らのぶどうの木(木材)にあるのではない。主の御言葉に聴従する民としての歩みの回復以外にない。この御言葉への聴従こそが、神の召命に対する信仰への道でありました。この真の信仰のあり方に対決する欺きの心が、選びの神のみを礼拝する信仰への忠誠を弱め、他の神を同時に崇拝する欺きの信仰を生み、偽預言者の言葉を好み育む土壌となって表れていました。神は、この偽りの信仰から生まれるのは、荒廃でしかないと見ておられます。そして、そのようなものになり下がったユダとエルサレムに下されるのは、「この地を荒廃させる」という審きでありました。

主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と言われます。主とつながることは、主の言葉に聞くことです(同7節)。しかし、そのようにして、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(同6節)といわれます。この主の言葉によって、わたしたちの生のあり方が規定されています。

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