エゼキエル書講解

17.エゼキエル書18章5-20節『律法の救済的な新たな地平』

エゼキエルは、ここで一見しただけでは、清浄律法の言葉を用い、預言者的告知の特徴を持つ決疑論(宗教規範を個々の具体的な行為や良心の問題に適用する方法)による神の決断の絶対的な妥当性を明らかにする語り方から離れているように見えます。しかし、エゼキエルは、捕囚にされるまでエルサレムで祭司をしていました。祭司は、清浄規定により、神殿における祭儀礼拝を行う者に、神の裁きの告知を行っていました。エゼキエルのここでの議論には、その背景があることを覚える必要があります。その理解に立てば、今、その告知の定式を彷彿させるように、捕囚の民に向かって、神の意志と関連づけて告知を行っている意味を理解することができます。

しかし、ここでエゼキエルが行おうとしている、律法の選択と、そこから派生する約束の妥当する領域は、神殿におけるものとは異なる新たなものであります。なぜなら、捕囚の民もエゼキエルも、不浄の地であると考える同じ異国の地にあって、祭儀的礼拝は行えなくなっていました。それゆえ、エゼキエルは、エルサレムにおける祭儀規定から自由な者として、その告知を行っています。しかし、申命記やレビ記17章以下の清浄律法に依拠しつつ、律法を異国における隣人関係の生の道徳的規範へと高める適用を試みています。

まず6節において、正しい神礼拝の問題として偶像を厳格に拒絶すべきことと、偶像に捧げられた供え物の動物の血を食する禁止により、レビ的清浄規定を用いています。これは新約時代にまで続く異教徒との区別のための重要な律法解釈の基礎となりました(使徒15:20,29,21:25)。

異教祭儀に加わる民の反逆の罪の問題は、イザヤ書65章3-5節に論じられているように、まさしく異教の地バビロンにおいて、異教祭儀にかかわる倫理的荒廃が深刻な問題とならざるを得ませんでした。姦淫の罪と並んで、生活困窮者に対する兄弟としての連帯義務の問題は、重要問題でありました。

エゼキエルは、エルサレムにはないバビロンにおける新しい事態に直面して、新しい祭儀規定を造ろうとしたのではありません。異国に地における真のヤハウエの民としての信仰共同体として、生の秩序を打ち立てることが、エゼキエルにとって重要な課題として主から与えられていたのでありました。

エゼキエルがここで挙げる律法の要求を満たす者は、共同体としての生の秩序を保つものとして正しい者とみなされますが、これに対して悪しき者とは、信仰共同体の生のあり方を、利己的な動機から攪乱し、己が衝動によって恣意的に貫こうとする者を指して言われています。

こうして、祭儀を持たぬ捕囚の民に対して、エゼキエルは、おごそかな神殿律法の形式に則りながら、神への従順、共同体秩序のあり方を提示しています。元来、専ら約束の地における神殿共同体において意味を持っていたことが、ここバビロンにおいてもあてはまるものとして、その適用を行っています。義しき者については、9,17節において、「彼は必ず生きる」と告げ、悪しき者については、13節で、「必ず死ぬ」、と主の言葉として告げています。

捕囚による古き祭儀秩序の崩壊後、しかし、神の恵みにより新たな会衆が成立しつつありました。祭儀においてエルサレムの民に約束されていたのと同じ約束が、異国の地で主の民として生きる彼らに約束されていることをエゼキエルは告げています。今ここで、この異国の地で、誰でも、預言者の言葉を信じる者には、世代を超えた咎の関連を超えて、神の新たな自由な恵みが与えられていることをエゼキエルは明らかにしています。

エゼキエルは、7、9,13,17節において、義しい者に対する生の約束(9節)、主の正義に反する悪しき者の死の約束(13節)、従順に立ち帰った悪しき者の子孫に対する生の約束(17節)は、神と同胞の民との新たな結びつきに向けて導かれて行く道を開く言葉として告げられています。

神殿や王国は、これまで主の民の将来に対する物質的な保証を与えるものでありました。しかし、捕囚という事態は、その保証を無意味化させるものとして、捕囚の民を絶望させるものになっていました。しかし、ここで律法の共同規範が新たに示されることによって、いかなる時、いかなる状況においても、現在と将来の生を保障するものとなります。エゼキエルは、そのことを明らかにし、示しているのであります。

こうしてエゼキエルは、生の神的規範を新たに明らかにしています。それは神との人格的な出会いによって成立する新たな神の民の規範であります。新しい心と新しい霊を造り出すことのよって生み出される神への立ち帰りへの道で、神に真実に生きる道として提示されるものであります(31節)。この新しい霊による民の再生こそ、新約聖書の普遍的な救いに通じる新たな地平へと開く救済への道です。エゼキエルは、その道に通じる議論を、ここ5-20節において行っています。

エゼキエルは、このように規範を新たに示すことによって、個々の罪の責任は個人に属する問題であることを明らかにします。しかし、それは、共同体から切り離された個人の問題ではなく、あくまでも共同体の一員としての命の規範であります。

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