イザヤ書講解

57.イザヤ書53章7-12節『多くの人が義とされるために』

53章4-6節は、使徒信条の「生まれ」という言葉に対応し、7-9節は、「苦しみを受け、死んで葬られ」という言葉に対応すると良く言われます。このところはまさに、罪なき者の受難死について歌われているところです。特に9節において、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らうものと共にされた」と歌われています。僕には何の罪も認められないのに、罪ある者の罪を背負って、その償いのために身代わりとなって苦しみを受ける受難死であったことが歌われています。

この罪なき者が、他人が裁く法廷で裁かれ、暴力的行為によって命を取られ、罪ある者と同じ墓に葬られ、罪あるものと同じ扱いを受けたという、恥辱に満ちた生涯と死と葬りの姿がここに報告されています。こんな恥辱を受けているのに、この僕は何の口答えもせず、無言のうちにその恥辱を耐えています。誰からもその死の意味を理解されずに、死んで行った僕の姿がここに報告されています。

8節の後半において、「わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」彼の時代の誰も知らなかったと報告されていますとおり、この前代未聞の僕の受難死の意味を理解できる人は、彼の時代に一人もいなかったのです。

しかし、10-11節は、この僕がこのような苦難を受けることが主なる神の意志であったことを次のように報告しています。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

彼は自らの受難の生涯が神の意志として、しかも罪ある者の「償い」「執り成し」のために必要な定めの下に置かれたメシアとしての召しとしてこれを受け止め、その使命を全うしたことを語っています。この僕は多くの苦難を耐え忍んだ功績の故にメシアと認められたのでありません。また、苦難を多く味わうこと自体に意義があるのでありません。聖書は苦難を多く味わうこと良いことであるといっているのでもありません。

彼の受難が主の意志であったことに大きな意義があり、慰めがあります。

10節の御言葉は二つのことを述べています。

第一に、彼に病の苦しみを負わせ打ち砕くことが主の望まれたことであるというこの言葉は、主なる神は、既に苦難の僕の側に立たれていることを明らかにしています。彼のその外見上の惨めさ、貧しさ、弱さに関わらず、主なる神は彼の側に立っておられるということです。そして、彼のその病を通しての苦難は、その様な苦しみの中にある者の救いのためのものであるゆえに、神は彼を信頼しその病や弱さに苦しんでいる彼の民とされた者の側にも立っておられるということが述べられています。それが主の望まれることであるということがかたられているのです。ここに十字架の主に信頼する者に与えられる大きな慰めがあります。現在の大きな苦しみにもかかわらず、主なる神は、その苦しむ者と共に居ますことを明らかにされているからです。

そして第二に、主なる神は、僕の死後、彼への慈しみを、彼に対する介入の中で実現されるということが述べられています。「自らを償いの献げ物」として死んだ僕が「子孫が末永く続くのを見る」のは、僕自身が本当に生きていてこそ意味があります。旧約聖書における祝福の方法としては、長寿において実現することが語られますが、この僕は、「自らを償いの献げ物」として死んだ訳ですから、そのような祝福を受けることはできません。ですから、「子孫が末永く続くのを見る」という言葉は、この僕が長寿を与えられて神による復権、高くされるという栄誉が歌われているのでありません。

主の望まれることは、彼の「子孫が末永く続く」ことです。それは、それが「彼の手によって成し遂げられる」ことです。それは、彼が「苦しみの実りを見、それを知って満足する」形で実現するものであります。

この僕の受けた打撃、嫌悪すべき生、その生の中で受けた苦難によって、僕は他人の罪を引き受け、同時に他人を懲罰から救う力を主なる神から受けるということが11節において言われているのであります。彼が見た「苦しみの実り」とは、その様なものでありました。それは、まさに彼自身が他の者に先立って受けた「実り」であり、「彼の手によって成し遂げられる」彼を通して与えられる他の者に与えられる「実り」でもあります。

その実りとは何か、ここには「多くの人が正しい者とされる」ことであり、「子孫が末永く続く」ということ以上何も言われていません。

この受難の僕の歌は、第二イザヤ自身の受難や捕囚の民の苦難の姿をもとに歌われていると思われますが、このような報いを彼自身が受けたとか、その時代の民が受けたという事実を確認できる証拠は見出すことができません。しかし、僕の苦難が、「多くの人が正しい者とされ」、「子孫が末永く続く」という意味づけは、現在苦難の中にある人々を励ますメッセージとしての意味を十分持っていたことだけは確かです。

そして、この僕の姿における真の成就は、新約聖書の時代まで待たねばなりません。新約聖書は、それは、僕の復活であり、僕を信じる者の復活であることを明らかにしています。

主なる神からこの僕が「多くの人を取り分として戦利品として受け取った」のは、彼らに命を与えるためです。彼はそのために打ち砕かれ、彼に罪を負わせ、彼の苦難を通して主なる神は、多くの人を正しいとする、「主の御腕の力」(1節)による、前代未聞の破格の愛による救い実現される方であることが語られているのであります。

主の望まれる救いは「彼の手によって成し遂げられる」と語られています。それは、ただ主イエスの十字架という大きな神ご自身の自己犠牲を通して与えられる救いの恵みです。神は、その罪の償いの犠牲のいけにえを喜び、満足し、彼の義によって「多くの人を正しい者とする」愛と恵みに満ちた方です。主イエスは、この神の意志を実現するため、十字架の苦難の道を喜んで歩まれ、その死の辱めをも厭わないで耐え忍び、これを行われたのです。

それゆえ、主イエスがなされる「背いた者の執り成し」とは、「自らを償いの献げ物」として捧げる罪の身代わりの懲罰を受けることでありました。「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられる」ということは、そういう辱め苦難を受けるということを意味していました。

僕の生涯、苦難、死は、このためのものでした。僕には何の罪もないのに、否、彼はこの執り成しをするために「僕」となって、わたしたちの間に住み、このような苦難を引き受けたということが述べられているのです。主イエスは、僕として、わたしたちのために、このような受難の道、十字架を耐え忍ばれたのであります。

ヨハネ福音書19章30節には、「成し遂げられた」といっていきを引き取られた十字架の主イエスの最期の言葉が記録されています。主イエスは罪の贖いのための執り成しが完了したことを確信し、自らの苦しみの実りを見、満足して息を引き取られたのです。そして神は、「彼の手によって成し遂げられた」ことを受難の僕イエスを、死者の中から復活させることによって、そのことを明らかにされたのであります。そして、この主の望まれたことを成し遂げられた救い主キリストを信じる者を、神は彼にあって「正しい者」としてくださるといわれるのです。

この福音は、現在わたしたちに与えられています。私たちのような罪深い者を救うために、神は主イエスを僕として与えてくださったのです。わたしたちは、この僕を信じ、この方の手によって成し遂げられた受難、十字架によって罪が取り去られ「正しい者とされ」、復活の命に与る幸いな者にされているのです。

この人を仰ぎ見、信じて歩む者すべてにこの恵みが約束されているのです。

旧約聖書講解