アモス書講解

14.アモス5:21-27『正義を洪水のように流れさせ』

この預言は、祭儀に対してなされています。それゆえ、「主(ヤーウェ)の日」に結びつけられています。この預言は、辛辣な表現を取って祭儀と対決しています。内容から見て、この預言は聖所での祭礼の際に語られたものであると思われます。内容的には、4章4-5節や5章4-5節と同じ事柄を扱っています。しかし、表現の鋭さにおいてこの預言は他の祭儀に関する預言をしのいでいます。ここでもアモスは、単なる偶像崇拝や祭儀的熱狂主義と対決しているのではありません。アモスは、主の聖所で執り行われる通常の祝祭儀式全体を批判しています。殊に、ベテルとギルガルの国家聖所における祭儀が、その批判の対象として念頭に置かれていたと思われます。

祭礼において、民衆は様々な犠牲やささげ物を持参し、それらを奉げました。そこでは歌やにぎやかな伴奏によって「喜び」が表現されました。しかし、これら一切が全面的にヤーウェから拒否されています。ここに神と彼らの神礼拝行為との間に、橋を架けることの出来ない重大な亀裂が生じていることが表明されています。

アモスは、人々の、自分たちは神の前に敬虔に振る舞い、神の前に喜んでいる、という宗教的満足と誇りを、痛烈な嫌悪と嘲りの表現をもって否定します。自分は敬虔なイスラエル人であると自負する人々は、主への義務を満たしているので、神からの恵みと祝福とを確保できるものと信じていました。しかし、その様な思いでなされる祝祭行為は全く逆の働きをし、神の激怒を招くものに他ならないことをアモスは示します。

アモスは繰り返し「お前たちの」祭り(21節)、「お前たちの」騒がしい歌(23節)、「お前たちが」勝手に造ったものだ(26節)といって、主なる神によって創り出されたものでない、全く異質な、根本的に対立する宗教的世界の衝突を明らかにします。

アモスは、4章5節で、「それがお前たちの好んでいることだ」と言って、その祭儀が神によって指定されたものではなく、人間的な好みや願いから出てきた、人間的な願望、人間的な尺度による要件を満たすだけのものでしかなく、神に対する人間の自己保障の手段に他ならないことを明らかにしています。イスラエルがこの時行っていた祭儀は、人間的な手段によって神の恵みを我が物にしようとする営みでしかなかったのです。

しかし、神との関係を生み出すものは人間の手許にはありません。人間の手許にあるように人間自らが試みることは、本来神の側から結ばれた関係の転倒であり、その関係の破壊行為となります。祭儀における「喜び」の表現における狂信性や、行き過ぎた熱狂、偶像化は、すべてこの逆立ちした宗教性の果実でしかありません。

真の宗教性回復の道は、ただ一つ。それは、神から出発する神中心的な思惟からのみ可能となります。それが理想的なかたちで表された時代として、アモスはホセア同様、荒野における放浪時代を例示します。荒野の流浪の時代、イスラエルは、犠牲祭儀ではなく、神による自発的な(恵み)の賜物としての助けと、その恵みへ信頼を、すべてのことに先行させて生きることを教えられました。神と民との関係について、当時の人々を捉えていたのは、民ではなく、神がはじめに働きかけられたことへの感銘でありました。それはまたモーセ時代を通じ、救済史伝承において保持された視座でありました。

これに対してカナンの国家聖所(ヤロブアム1世によって建設され、ヤロブアム2世によって更に拡大された)にあって行われる祭儀が、この神との本源的な関係が転倒していました。それは、その起源の感覚的物質的背景から見ても明らかです。イスラエルの民は、その転倒した祭儀の起源から、貪欲で厚顔、そして利己的な敬虔を振る舞っていたに過ぎません。そのような祭儀には、神と人との間に存在する境界に対する忘却があります。この忘却の背後にはまた、神への畏敬に対する根本的な欠如があります。その境界とは、救いはただ神の恩恵によってもたらされるという根本認識です。

人間の行為としての礼拝は、その恵みに対する感謝、それを給う神への心からの讃美、栄光を帰す形となって表わされます。そこには一切の人間的願望や要求は不可能です。しかし、神の御心なら、あるいは人間の願望もかなえられるかもという、「神の憐れみ」(5章15節)への期待は赦されます。それは、本来、神への真の畏れをもって謙遜な態度から出る「祈り」としてしか表せない事柄です。

しかし、この時のイスラエルの祭儀には、神への畏敬とは全く無縁の人間化された神の像が立っていました。それゆえ、そこに神の怒りを誘発せざるを得ない原因がありました。

神はその聖なる怒りを背景に、24節においてイスラエルに要求を突き付けられます。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」といわれます。パレスチナでは夏には全く雨が降りません。だから川床も涸れ谷となります。彼らはカナン風に農耕をうまくやっていけるために適度な雨を求めました。しかし、その背景にはカナン風な異教的な宗教儀式による求めがありました。これに対して主が彼らに求めるのは、主の「正義」でありました。主の正義を顧みないこの民に向かって発せられるこの言葉には、主の審きの威嚇が含まれています。民が求める水は、審きの威嚇において、実りをもたらす慈雨としてではなく、破滅をもたらす大洪水として現れます。

24節の「洪水のように…流させよ」の「流れさす」(ガーラル)は、27節の「捕囚として…連れ去らせる」の「連れ去る」(ガーラー)と語呂合わせになっています。ガーラーにならないように、ガーラルせよとの反意語的命令がなされています。乾期には涸れ川となるところを、命の泉(ガル)である「正義」(ミシュパート)と公義(ツェダカー)が絶えず溢れる社会となることを神は求めておられます。

祭儀は、何よりも先ず神の臨在のもとに、「公義と正義」が民に対して明らかになるべき場でありました。しかし、人々が祭典において理解したのは、自分たちの物質的国家的存在の保障という形において、祭儀が媒介するはずの「救済の確保」でありました。人々は、神の民として、その様な保証を神に要求できるものと考え、それが神を本来の場から引きずり降ろし、神を自己の欲求の奴隷に貶め、単なる偶像にしてしまうことになることに気づかなかったのです。アモスは、この結果、事柄が全く逆転してしまった事実を見ています。祭儀の中心は神との出会いにありました。そこは、神の公義と正義が明らかにされるところであり、それが聴かれるところでありました。神が主であって民の奴隷ではなかったのです。しかし、その主従が全く転倒してしまっていました。イスラエルが神の民であるなら、主のこの民に対する公義と正義は、審きを意味します。なぜなら、主は、この民にだけそのことを徹底的に明らかにしたのでありますから、これを最も重んじ聞かねばならない礼拝での正義の軽視を許されません。礼拝の時を支配しているのは民ではなく、神です!だからこの背信の民に表される神の支配は、民族の支配と栄光の終わりとして現されます。

26、27節は、イスラエルを襲う神の審きが、徹底して破壊し尽くす洪水のように押し寄せることを明らかにしています。その神の審きが押し寄せるなら、イスラエルの祭儀のきらびやかな栄光も消え去ります。偶像を御輿に担ぐ祝祭の行進は、神が命じたものではなく、王たちが命じ、造らせたものです(列王上12:28)。イスラエルはつい最近まで最も恐るべき敵であったダマスコのはるかかなたにまで「連れ去られるであろう」と告げられています。御輿で担がれた偶像の行進を、アモスは、アラム王国の最後に勃発するアッシリア帝国によってもたらされる国の滅亡と、捕囚の行進の姿を予表するものとして描いています。「お前たちが勝手に造ったものだ」という預言者の言葉が、その王たちの自己栄光の願望の姿の最後の悲惨さを一層強調しています。

イスラエルの滅亡の背後には北のアッシリアの存在があります。しかし、そのアッシリアの背後には、より強力な存在があります。それは、神です。アッシリアもまた神に仕える存在でしかありません。神こそがこの歴史を支配し、捕囚へともたらす当事者です。しかし、この事実は、イスラエルの希望につながります。イスラエルの民は、神の偉大と尊厳を認めず、神の歴史支配を認めず、神への畏敬を失い、人と神との間の境界を厚顔無知にも祭儀行為の中で抹消してしまいました。神はこの侵されてならない領域を自ら確保し、罪深き民に知らしめるために審きを行われます。この審きは、神による民との関係の回復を目指したものです。そこに大きな希望と慰めがあります

アモスは、ホセアのように神の愛を語りません。公義と正義をのみ語るように見えます。しかし、そうではありません。神の愛は、祭儀において、公義と正義を示すことにおいて現されています。それを蔑ろにした「お前たちが勝手に造ったもの」による礼拝を否定し、それに依存する歩みを終わらせる事によって、もう一度真剣にご自身を求めさせようとする神の不変の愛を、アモスは見ています。この神の不変の愛による熱情こそが、われわれの希望となります。十字架において示されているのは、人間の願望の挫折であると共に、神の愛による真の礼拝の回復への道でもあります。十字架の下に、弟子たちは救い主を礼拝することが出来ませんでした。しかし神は、その弟子たちを、真の礼拝へと人々を導く一団に変えられます。ですが、その回復には、もう一度自分たちは何を信じ、何に聞いていたか、との問い直しが必要となります。キリストの復活による神の恵みの支配を信じる信仰こそが、彼らを真の礼拝者の一団に変えました。

アモスがここで語る主の審判の言葉は、わたしたちにもう一度真実な礼拝とは何か、神の前に生きる真実な生き方とは何かを、問い直すことを求めています。礼拝が「お前たちの」祭り、「お前たちの」騒がしい歌、「お前たちが」勝手に造ったもの、で占められてはいないか。本当に神の救い、神の恵みを期待し、神の恵みの導きによる礼拝が守られているか、預言者は私たち一人ひとりにそのことを問われます。

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