エゼキエル書講解

37.エゼキエル書47章1-12節『神殿の泉と楽園の流れ』

エゼキエル書40章-46章は、一人の案内人によってエゼキエルに示された新しい神殿の幻について記しています。この幻が示されたのは、40章1節によれば、最初の捕囚とされた日から数えて25年のこととされています。その日付は、前573/2年を指します。「年の初め」を祭儀上の年の初め(第七の月)と取るか、民の生活の年の始め(第一の月)とするかによって、その年がいつであるかは変わります。それはこの書が記す最後の日付(32章17節以下)に先立つこと2年です。エゼキエルに示された幻の場所は、40章2節によれば「非常に高い山の上」とされています。その場所はシオン以外には考えられません。しかしその周りのこれを越えた山を目にしながら、この山の高さを強調しているのは独特な誌的誇張であると言えます。それは、古代オリエントのあらゆる山のうち最高のものは神の山であり(イザヤ2:2、詩48:3、ゼカリヤ14:10)、楽園の川はここから発する(ゼカリヤ14:8、詩46:5、エゼキエル47:1以下)という観念と関連しています。ここに示されている神話的表象をシオンに移すことで、イスラエルの神の無比の崇高さと世界支配の主張が具体的に表現されています(これらの形象の意味はヨハネ黙示録21:1,2における新しいエルサレムに適用され、そこでは、天使も測り竿をもっています。同21:15)。これらの表象は、主(ヤハウエ)ご自身によって天にある実在物として造られ、地上に移しかえられた神殿であって、その出現は地理的条件がすっかり変えられています。そびえたつ世界の山と、それを取り囲む平地と、そこから流れ出る川と切り離すことができません。ここには人間の建造者は全く考えられていません。

エゼキエル書47章1―12節の神殿の泉と楽園の流れに関する幻は、これらの叙述との関連で読むことが求められています。

ここでエゼキエルが見た幻は、神殿の東側の正面の入り口から見た光景です。それは、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れている、という光景です。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた、と言われていますが、手に測り縄をもって東の方に出て行き、一千アンマ(約500メートル)を測ると、その流れる水の深さはくるぶしまであった。更に一千アンマを測ると水の深さはひざの高さに達し、更に一千アンマを測ると水の深さは腰に達し、更に一千アンマを測るともはや渡ることのできない川となり、水は増えて、泳がなければ渡ることができない川になった(5節)、と言われています。最初はくるぶしほどしかなかった水の深さが、わずか2キロ程の流れの先では、泳いでしか横断できないほどの水量の多い川へと増大しています。

そもそもエルサレムには、このような大河は存在しません。水のないユダヤの荒野の中で、説明しがたいほどの豊かな水のあふれをエゼキエルは見させられた後、川岸に連れ戻され、彼が川岸で見た光景は、以前には明らかに不毛な流れの周囲に、「こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた」(7節)、という光景です。その川は、ヨルダンの低地に至るまで勢いよく流れ、死海の塩水に注ぐのです。死海は濃い塩水のため生物が生息できないので「汚れた海」(8節)と呼ばれていました。しかしこの勢いよく流れる豊かな水量によって、その汚れた海も「その水はきれいになる」(8節)。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。」(9,10節)これが、エゼキエルが見た光景です。
彼が見たのはそれだけではありません。死海に注ぐ沢には、きれいにならない部分も残り、このため塩を取ることができたと言われています。水がきれいになったからと言って「塩」まで取れなくなると困るので、神はそれを残されるのです。

そして、川のほとりにはあらゆる果樹が実り、果実は絶えることなく、その果実は食用となり、葉は薬用として用いることができました(12節)。

神殿から流れる川は、楽園の川であり、その水は都を喜ばせる(詩編46:5)のです。その都は諸々の山の頂にあり(詩篇48:3)、神の住まいを置き、世界の四つの川を流れさせる(創世記2:10-14)世界の山と比肩されるべきものとして示されています。

神がこれらの光景をエゼキエルに見せたのは、終末の日におけるパラダイスの回復の恵みを示すためです。その範囲は全世界を引き入れる普遍的な広がりとして示されています。それは自然世界での回復の光景でありつつ、イスラエルに与えられる神との新しい交わりが形成される神殿から発する素晴らしい光景は、その新しい交わりが諸国にも及び、地上の全世界及ぶ終末的救いの出来事として示されています。それは、預言者エゼキエルの関心と適合するものでもあります。

エゼキエル書40―48章には、エゼキエルの記したものと思えない後のユダヤ教団の完成時における神殿と国と民の像が記されているとの指摘が聖書の研究者の間からなされています。それらの出来事の叙述は、回復されたイスラエルの姿を見る視点としては重要で意味をもっていますが、エゼキエルが示した神の恵みによる終末の日における救いを描写しているかどうかという点については、47章に記される神話的な表象を用いる描写から、その本質的な姿を見ていくことがより重要であると考えます。

神殿は、天における神の御住まいをひな型にした写しで、その神殿から流れ出る命の水がもたらす豊かな潤いは、イザヤ書32章15-20節に示される光景にも通じます。そこでは、神の霊による働きによってもたらされる救いであり、御言葉に基づく神の正義と平和による安らぎとして語られています。詩編1編には主に従う者の祝福を「流れに植えられた木」(3節)にもたらされるものとして語られています。
エゼキエルは、神の言葉を取り次ぐ「人の子」として、イスラエルが聞くべき御言葉を語る預言者として召されていました。その者が取り次ぐ神の言葉に聞く祝福は、エデンの園でアダムが御言葉に聞くことに失敗して失ったパラダイスの祝福された神との豊かな交わりを回復させる豊かな恵みとして指し示めされています(イザヤ51章3節)。エゼキエルは祭司の家系ですが、エレミヤと同じように、神の恵みによる霊による再生への道を示す預言者でありました。それは、どこまでも神の言葉に聞く者に与えられる終末の日に与えられる確かな救いです。そして、新約聖書につながる信仰者に与えられる救いでもあります。その救いの及ぶ世界が、当時知りうる全世界に広げられて記されているところから、その救いは、広く異邦の民にも及ぶ救いとして示されていると読み解くことができます。その渇きをいやす水の癒しがもたらす救いの射程は、主を知らなかった諸国民にも及ぶものとして語られています(イザヤ書55章5節)。

この救いの射程が真の主を知らないで苦しんでいる世界に向けられたものであることは、極めて現代的な宣教の課題を示すものでもあります。

エゼキエル書の学びは、これで終わります。(完)

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