エゼキエル書講解

18.エゼキエル書18章21-32節『立ち帰って、生きよ』

18章1-20節において、エゼキエルは、罪の責任は誰にあるのかという問題に関し、正しい世代、悪しき世代、正しい世代、と三世代に渡り論じ、個人の責任に属することを明らかにしました。しかし、それは、共同体から切り離された個人の問題ではなく、どこまでも共同体の一員としての命の規範であることを強調しています。

21-29節において、個人の生と運命に臨む決定的な新たな側面について論じられています。個々人の生において重要なのは、まことの神である主なるヤハウエに対して開かれた心を持つことであり、奉仕と忠誠の信仰を持って人格的な交わりに生きる大切さが論じられています。

先ず、21-22節において、主の民の運命は、主によって立てられた真の預言者の呼びかけ(そこに神の意思が示されているから)に従い、その生き方全体を神の契約の秩序に整えるなら、神の恩寵を確信することができることが明らかにされています。

しかし、24節において、これまで律法に従って、正しい歩みを続けていた者であっても、その正しさから離れるなら、主の審きをまぬがれることができないことが明らかにされています。これらの言葉を通じて問題にされているのは、神の呼びかけに応えるべく、常に目覚めていることです。神の秩序に従っていく人生の全体としての方向性です。

前598年の第1回バビロン捕囚は、イスラエルの生に対する契約の神ヤハウエの取り扱いについて、捕囚にされた人々の間から、主の正義に対する疑問の声を呼び起こすことになりました。それは、主の正義を揺らがせかねない根本問題でありました。

アモスは、祭司的な保証を求めて地方の聖所に赴く民に対して、「わたしを求めよ、そして生きよ。」(アモス5:4,6,14)という主の言葉を告げ、祭儀において与えられる長寿の物理的な保証を超える、ヤハウエがその民に向ける新たな命のあり方を明らかにしました。エレミヤは、ゼデキヤ王に向かって「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば、命を保つことができる。」(エレミヤ27:12)との主の言葉を告げ、祭司たちと、この民のすべてに向かって、「主はこう言われる、主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻ってくる、と預言している預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロン王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、この都が廃墟と化してよいだろうか。」(エレミヤ27:16,17)と告げました。

これらのアモスとエレミヤの言葉との結びつき中で、ここでのエゼキエルの言葉を理解するなら、エゼキエルの語る命の約束は、単なる物質的な命の保証以上の事が含まれていることがわかります。それは、ヤハウエの赦しと祝福に引き続いて、捕囚の人々がそこで死に渡されたと感じている審きの宿命から引き出されることが内包されています。罪の赦しによって可能とされたこの新しい生には、来るべきイスラエルの救いへの参与が含まれています。

エゼキエルは、エルサレムに対する審判を、確実なものと見做していますが、それは単にイスラエルに対する裁きとしてなされるのではなく、民がヤハウエに新たに向き直ることを可能ならしめるものとして起こることが意味されていることを明らかにします。だから、ここで告げられている言葉には、主に立ち帰って、主が約束する命の道を求める者に、将来の救いの確かさを保障する意味が込められています。エゼキエルの強調する命の約束は、イスラエルの再建への参与に関わるものです。それは、捕囚の人々をして、ヤハウエとその民への奉仕において現在の時に新たな命の歩みを始めさせるとともに、彼らに終末論的な命の賜物を展望させるものでもありました。

23,32節において、二度繰り返して語られるヤハウエの救いの意思は、その展望の下においてのみ、正しく理解することができます。悪しき者が立ち帰ることなしに、主の救いに与ることは不可能です。しかし、その立ち帰りは、主なる神の新たな救いの意思が示され、その供与に迎えられ、その先行する恩恵の下に過去の咎の束縛から解かれて新たな歩み出しを赦されることなくしては不可能です。それは、一見、見捨てられたように見える者たちに、飽くまで向かおうとする主なるヤハウエの姿勢の完成を目指すものです。

それは、12章16節において、少数の「残りの者」に萌芽的に示されていたものでもあります。そしてより明確に、主の救いがここで告げられています。

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(32節)という主なる神の言葉には、神の本来の意図は、救いへと召された新たな神の民の形成です。主の民の反逆の罪に対する厳しい捕囚という審きは、この民を滅ぼす目的でなされたのではなく、彼らの立ち帰りを求めてのものであり、新たな主の民の形成のためのものであることが明らかにされています。

主の救いに与るための主の民の主体的な自覚の問題としては、悔い改めて立ち帰る以外にありません。しかし、悔い改めとは、個別の罪の行為に対する後悔を表すことではなく、神に対する心の内奥の態度の問題です。新たな心、新たな霊の力に与ってなしうる再生の事柄です。31節の「新しい心と新しい霊を造り出せ」、という主の命令は、36章26節の「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」という神の約束と関連するものとして語られています。それはまた、エレミヤ31:33において語られているイスラエルの家と結ぶ新しい契約、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」という約束とも深く関わる言葉として示されています。

神の救いの賜物は、人間を自分自身の責任に引き渡すのではなく、人間に呼びかけて神の恵みの供与に応答させ、その者に贈られた新たな命の可能性の内へと歩み入らせるものです。パウロが、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロ-マ12:2)と信徒たちに命じたのは、全ての内に働く神の恵みを前提しての事です。神が捕囚の人に開いた救いの道は、避けがたい死から命へ導くものとして、なおイスラエルの家に数えられるすべての者がたどりうるものとして示されています。死に瀕するものに立ち帰りの道を残そうとする神の愛の呼びかけにより、彼らは、旧き生きざまから引き出され、新たな目的に向けての歩みを備えられました。神に立ち帰って新たに歩み出すように心迫るこの呼びかけにおいて、神の新しい創造の恵みにより人間の生にもたらせる期待が緊張感をもって表現されています。

神が捕囚の民に向けておられる意思は、32節「立ち帰って、生きよ」という言葉に集約されています。エゼキエルの告知は前587年の破局後、決定的に変貌します。人間共同体が絶望的な危機に臨む時に、神によって成就を約束された唯一の救いの道が提供されます。人は、共同体の生の破綻に直面して、神による共生を基礎づける可能性が示されます。その可能性への道を開くのは、神以外にないことを、そこで初めて、本当の意味で、認識できるようになるのです。そうして、エゼキエルは、破綻の民に徹底して、神の恩恵による救いを明らかにしていきます。

旧約聖書講解