詩編講解

9.詩篇11篇『神への信頼』

詩編第11篇は神への信頼を歌った詩篇です。この詩篇の背景になっているのは、神を信じる者と信じない者との間の対決です。神を信じない者たちの陰険な暴力的な行為によって信仰共同体の土台が揺すぶられ、殊にその指導者と覚しきこの作者の生命が脅かされている、これがこの詩編11篇の背景にある事情です。この詩人の友人たちは、彼の身の上を案じて逃亡を勧めました。けれども彼は少しも恐れず、友人たちに、「主を、わたしは避けどころとしている」と答えます。彼は、敵よりもさらに安全に保護してもらえる隠れ家を知っていました。それは、神の聖所であり、神の下へ逃れていくことでありました。彼は、自分が逃れるべき避け所はただ一つしかないと最初から信仰の目で見据えていました。それは、神です。この詩人が揺らぐことなく足をしっかりと踏みしめて立っている土台が、「主を、わたしは避けどころとしている」という言葉のうちに簡潔に述べられています。

彼は、この言葉において、この詩全体の内容を支えている自分の確信を明らかにしています。彼は、自分の唯一の出発点、準拠点は神であると力強く指し示し、わたしはここに立つ!と証言しています。それは、マルチン・ルターがまさしくヴォルムスの国会でHier stehe ich! (われここに立つ!)と言ったとき、この詩人と同じ信仰を表明しています。

ルターもこの詩篇の詩人も最初からこのような強い確信、神への信頼の中で生きる信仰を持っていたのでしょうか。ルターは審問官の「眼前の著述は汝が書いたものか否か」という問いに、「然り」と即座に答えましたが、次に「汝これらの書を記したことを取り消すか否か」と問われたとき、ルターは即答を避け、一日の猶予を希望したと言われます。しかもその声は低かったと言われます。それは、問題がまさに皇帝の権威と信仰の権威との対立にあったからです。しかも、この問いは神の言葉に関することであり、信仰に関することでありました。ルターがヴォルムスに召還される前に、ルターおよび彼の著作が皇帝により既に有罪とされていることがルターに伝えられていました。ですから、ルターの友人たちは彼にヴォルムスへの旅行を中止するように勧めたと言われます。ルターは自分の証言が自らの死を意味することになるかもしれないことを知っていました。一日の猶予を希望したところに、彼の苦悩を見ることができます。しかし、翌日のルターは前日とはうって変わった確信に満ちた声を部屋全体に響かせたと言われています。

ルターは自分の著述を三つに区分して所見を述べたと言われています。彼は自分の確信を次のように述べております。「教皇や宗教会議はしばしば誤謬(ごびゅう)を犯し矛盾を行ったゆえに、聖書あるいは明白な理論によってわたくしが確信するのでなければ、わたくしは、わたくしによって引用した聖書によって拘束されている。わたくしの良心は神の言葉によって捕らわれている。それで、わたくしは、そのことが良心に対して安全でなく正当でもないゆえに、撤回することができず、しようとも欲しない。神よ助け給え、アーメン」と答えたと言われます。「わたくしは、わたくしによって引用した聖書によって拘束されている。わたくしの良心は神の言葉によって捕らわれている。」この言葉の中にルターの信仰が明瞭に表明されています。

逃亡を勧めた友人の言葉に全く動じない強い信仰をこの詩篇の作者は持っていたとしても、まったく彼の思いが乱れなかったと考える必要はないと思います。常にぐらぐら揺れているわたしたちに取りまして、それは、溜め息の出るような羨ましい強い信仰というほかなく、わたしにはとてもできないなというところで終わってしまいそうです。しかし、あのルターですら、一日の猶予を願ったということの方が、わたしたちには親近感を覚えます。それでも、ルターは強く立った、それは、彼の信仰と良心が固く聖書に結び付けられ、「聖書によって拘束されていた」からです。聖書の約束を信じ、そこに委ねきる、約束を与える神を信頼しきるとき、弱い者も強く立てる、それ自体が信仰によって学ぶ事柄であります。信仰者は神を信じているゆえに、最終的に慌てることがないのです。イザヤ書28章16節において、イザヤは、次のように言っています。

「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない」と。「これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石」であるイエス・キリストを土台としている信仰、そこに立って、「信ずる者は慌てることはない」のです。

実際、この詩篇の作者を取り巻いている危険は小さくなかったと思われます。友人たちは、弓を構えて獲物をうかがう狩人という譬えを用いて、正しい人々の命をつけ狙う悪人たちの狡猾な姿を描き出し、彼に逃亡を勧めました。友人たちは、こうした企みによって、生命および安全、信仰の共同体である教会、正義等が崩壊してしまったなら、信仰者にいったい何が残るのか?という疑問に心が奪われています。もしそのような事態に到れば、信仰の共同体の指導者であるこの詩人の無力を証明することになるだけであると考えているのです。だから、惨めな廃墟を捨てて立ち去る方がましだ、というのが友人たちの考えでした。このような見方には落とし穴があります。それは、徹頭徹尾人間的な見方に終始していることにあります。彼らには、事柄を支配している一番肝心な力を見過ごしています。神の視点から物事を見るということ、をです。

しかし、詩人は、視線を別のところに転ずることによって、彼を圧迫する人間的な動揺と危険の鎖を大胆にかなぐり捨てて、自分を解放することができました。彼は聖所に臨在される主に目を注ぎました。そしてさらに、目を天に座して支配しておられる主に注ぎました。そして、その主の御目が主を信じる者の喜びだけでなく、苦悩、悲しみにも注がれ、人の心のすべてを調べておられることを見ました。彼は、同じ主の目が、悪人たちの心も調べ、それを怒っておられるということをも洞察致しました。彼は神という立脚点に立って、事柄を見ました。信仰者は神を立脚点とし、神の視点に立って統べての事柄を見通すとき、驚くべき信仰の底力を見せます。この世を支配し万事を司っているのは、世俗の君主ではなく、神であり、神がすべてを良く支配し導いておられるのだということを、彼は信仰の目で見、知っています。世界の王であり、審き主である神にかくも大胆にしがみつくことによって、この詩篇の作者は、自分自身の危機的な状況を判断する正しい尺度を与えられました。彼に信頼の安らぎと落ち着きをもたらしているのは次の二つのことによります。第一に、神の御手には、力とともに正義があるということです。第二に、この最後の言葉を告げるのは人間ではなく、神であるということです。信仰者の生の土台は、神の揺るぎなき御手に置かれています。したがって、神が人間を見て、神を信ずる義しい者も神を信じない悪しき者も試みられる以上、わたしたちの生の土台は決して崩壊することはありえないのです。

神は、義しい者を助け、神を信じない者を滅ぼすことによって、生の秩序を固められるお方です。この点から考えていくと、疑いつつ、「主に従う人に何ができようか」と問うことは実に愚かなことであることが判ります。また、暴虐の徒はすでに神の審きの下に置かれているのに、その陰謀を逃れて逃げ出すのも無意味であることが判ります。それゆえ、この詩は、この二つの考えに行き着きます。

神を信じる者は、神と人間とのあいだの相互の生命のつながりのうちに神の本質と意思があることを知り、また、自分自身の生の意味と目的をも理解できるということを。この詩篇の作者が、「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」と明言しているのは、このことを意味しています。この表現は祭儀用語に由来し、礼拝者が平安に満たされて神の臨在を仰ぐ、祭儀行為のクライマックスとしての神顕現を指しています。旧約聖書の宗教において、祭儀の場における神の臨在とは、神のまったき救いの実現を意味しています。それが実現されることによって信仰共同体に幸福と、神との生きた交わりから来る力とが与えられたのであります。この詩篇の作者は、そのような信仰の力によって不安と試練を克服したのであり、友人たちの小心と敵の威力に対して勝利者となることができたのであります。聖書の信仰において、神への信頼と力、信仰と勇気とは、常に一対のものであります。

旧約聖書講解