イザヤ書講解

41.イザヤ書43章22-28節『赦しの神』

この御言葉は、真の神礼拝とは何かを教えるだけでなく、神の救いの本質を明らかにする点においても、聖書の中でも異彩を放っています。

聖書が教える神礼拝において本質的に重要な意味を持つのは、神に聞くということです。礼拝には、神からの語りかけという上からの面と並んでもう一つ重要な要素があります。それは、人間の側の応答としての感謝、賛美、犠牲の奉献の業です。それは、与えられた恵みに対する喜びとして表されるものです。本来この行為とそこで表される内的な思いは、祝福された道を歩んでいるときも、苦難の道を歩んでいるときも、不変です。

しかし、その礼拝の敬虔さは、一つの危険を常に内包しています。つまり、敬虔な礼拝者を神はいつも祝福してくださるだろう、祝福すべきだという期待を持って近づくときに、純粋に神に仕える喜びからではなく、神を自分の僕に引きおろしてしまう利己的敬虔の場に、神礼拝が変質してしまうからです。イスラエルの歴史は、わたしたちにその問題をいつも警告しています。

イスラエルの民は捕囚を体験して、礼拝の問題で神に向かって一つの告発をしました。

この御言葉は、その告発を受けて、主がその民イスラエルと法廷で対決して行う弁論法廷です。28節の「それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」という主の言葉は、この法廷における判決としての意味を持っています。彼らが行った告発は、「われわれはあなたに忠実に仕え、犠牲を捧げてきたのに、あなたはなぜこのようなことをおできになるのか」というものであります。それは捕囚という実に侮蔑的な仕打ちを、なぜいつまでも味あわせたままにしておくのか、そのことに対して納得がいかないという神への抗議です。敬虔に神の名を呼び、犠牲を捧げて礼拝したわたしたちに対して、あまりにもひどい仕打ちではないか、という神への告発が彼らからなされていたのです。

この告発に対して主は、22-23節前半において、その告発が的外れであることを次のように明らかにしています。

しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず
イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。
あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず
いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。

イスラエルは神に向けて礼拝を捧げたというが、彼らの礼拝としての言葉や行動は、実際にはそのようなものとして届かなかった、と神は言われているのです。イスラエルの礼拝は、真の神礼拝という名に値しない、うわべだけの形を整える礼拝でしかないという厳しい逆告発が神からなされています。それはすでに、アモス、ホセア、イザヤ、ミカ、エレミヤなどの預言者がイスラエルに対して行ってきた告発でもあります。また、サムエルがサウル王に向けて語った次の言葉を思い起こさせます。

主が喜ばれるのは
焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
反逆は占いの罪に
高慢は偶像崇拝に等しい。(サムエル記上15章22-23節)

むしろ主は、「わたしは穀物の献げ物のために、あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない」(23節後半)とさえ言われます。

そしてイスラエルは、自分たちは主に仕えたというが、これに対しても主は、「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた」(24節後半)と答えています。この「あなたの罪のためにわたしを苦しめ」の、「苦しめ」は、エベド(仕える)という語が用いられています。自分たちはこれまで主に仕えてきたと思っているイスラエルに対して、そうではない、お前たちの罪のために、わたしこそ苦しめられ、仕えさせられたのだ、と主はいわれているのであります。

「旧約の神観にとって、『あなたはあなたの罪をもって、わたしを仕えさせた(エベドとした)』という文(神が語るもの!)が不快であるどころか、ありえないものであることをはっきり認識しなければならない。神は主人である。セム人のすべての宗教において、神としての存在の本質は、根本的に主人であることにある。神がエベドとされるなら、神が仕えさせられるなら、神としての存在は神から奪われることになる。」(ヴェスターマン)

このヴェスターマン言葉は、深く受け止めて聞く必要があります。神は主人であり、人間はどこまでも神の僕であることが聖書の信仰の基本にあります。しかし24節のこの言葉は、この自然な関係を逆転させる行動を神が取られたことを明らかにしています。主人である神が僕として仕えるというのです。仕えるという行為は、およそ主人らしくない、その本質にそぐわない行為です。主人である神が、それを主体的にどのように引き受けられたか25節に明らかにされています。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

神は主人として僕である人間の罪を簡単に拭い去ることはできます。それは、僕の所有者である主人の自由な行為としてなされています。神はその自由に基づき、イスラエルの罪をぬぐい、思い出さないことにするという決意をされ、彼らの罪を引き受けられた、というのです。神はどこまでも主人として自由です。その自由で僕として仕える者となられるというのです。罪を拭い去り、それを思い出さない。そこに神の自由な愛、赦しがあります。このように、真の敬虔さを示さない、利己的なその敬虔さによって神を自分の僕にしようとした罪深いイスラエルに対して、神は、審きではなく、赦しにおいて神であることを明らかにされます。

イスラエルのいつわりの敬虔に対しては、26節において、次のように答えています。

わたしに思い出させるならば
共に裁きに臨まなければならない。
申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

主のこの言葉を、わたしたちは、自分自身の問題として聞くことができます。神礼拝において、どこか自分を正しいものとして振る舞い、それによって主の祝福を受けようと、取引しているところはないか、本当に深く反省を迫られます。その罪を神に思い出され、その心を見られるなら、審きを免れ得ない多くの罪があります。「申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。」という主の言葉の前に、わたしには何も正しいものはありません、というしかありません。それは、彼らの父祖たちだけの問題ではなく、現在の捕囚の民においても当てはまる問題であったからです。

しかし神は、現在の彼らの問題として直接それを語らず、彼らの始祖の問題から語っています。27節の「あなたの始祖」は、アダムのことでなく、ヤコブ(イスラエル)のことです。「あなたを導く者」は、あまり意味のはっきりしない言葉です。モーセやアロンのことが含まれるという解釈もあります。また、捕囚前のすべての指導者たちのことが言われているのかもしれません。いずれにせよ、ここで全イスラエルの歴史が回顧され、その歴史は神に対する罪に満ちていて、だからこそ神は、イスラエルについて裁判を起こさねばならなかったのだ、という理由が明らかにされています。

彼らが提起した告発の根本にある、なぜ自分たちはその始祖の罪を負い、捕囚としての苦しみに会わねばならないのか、また自分たちはいつまでその苦しみを味合わねばならないのかという疑問に対し、そこに至る全イスラエルの歴史を、罪の歴史として審きを免れ得ないものとして事実を認定した上で、28節において、「それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた」というその審きが正当であったことを明らかにされているのであります。

この28節は判決文の意味を持つ言葉だと述べましたが、しかしこれは彼らの訴えに対する判決文とされているのではありません。なぜ彼らの現在の悲惨さに至ったかという理由を示すものでしかありません。ここにはイスラエルの罪の歴史が回顧されているだけで、むしろこの法廷弁論で明らかにされているのは、それらの罪にもかかわらず、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」(25節)という神の赦しの判決です。神は今後イスラエルをそのような赦しの判決のもとに取り扱うという、実に慰めに満ちた主の判決がここに示されているのです。主である神がその様に僕として赦しの神として仕えてくださる、ここにイスラエルの救いがあります。

そして神は、イエス・キリストを、このような僕として、わたしたちに与えてくださっています。主の十字架は、まさに「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」(25節)という神の赦しの判決として、わたしたちに与えられている神の恵みの言葉です。

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