詩編講解

64.詩編130篇『深い淵の底から』

「深い淵の底から、主よあなたを呼びます」と詩人は神へ向かって身を伸ばし、手を上げて祈っています。「深い淵の底」という言葉によって、この詩篇の詩人は、痛ましい悲惨のすべてを物語っています。

彼を苦しめているのは、肉体的な苦痛や死の恐怖でありません。罪の深淵の中で自分がどうしようもなく神から遠く引き裂かれているという意識に支配されて、激しい苦しみと不安が彼を襲っているのであります。

この詩人は神なしに人間は失われた存在であることを深く自覚しています。人間が自分の罪によって壊した橋をかけようとしてもかけることができない事を知っています。その壊れた橋を再びかけることができるのは神のみであります。神から遠く引き離されている現在の自分の姿を、太陽の光も届かない深い海の淵の底で望みなき状態として受け止めています。だから、彼の祈りは、ものすごい畏れと緊張の中で、神が恵みと赦しの心で彼の方に身を屈めてくださるようにと深いところから身を起こし、手を高く差し伸べてなされているのであります。

光の差し込まない深淵では、彼の存在を知る者は誰もいません。この深い底から主を呼び求める彼の声に、主御自身が身を屈めて耳を傾け、彼の嘆きを聞き届けてくださるのでなければ、彼はなお望みなき深淵の中でその罪に圧倒され苦しみ続けねばならないのであります。

しかし、その罪を罰し、懲らしめを与えるのは主であります。この審き主から鞭打たれて、目をそらし、捨て鉢にますます罪の深みに生きることを彼は望みませんでした。また、彼は罪の赦しを直接懇願することもいたしませんでした。その様な願いをする権利も資格もないことを知っていたからであります。彼を赦すか赦さないかは、神の自由な決定にのみかかっています。だから、彼は、神への祈りにおいてはじめて自分のよるべなさを十分に意識しますが、同時に罪をその深みにおいて深く認識するようになりました。聖なる神の御前には誰も立つことはできない。生ける者は誰一人として神の御前には正しくないからであります。

それゆえ彼は、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」と問いかけているのであります。この彼の問いの背後には、罪の威力と、罪に陥った人間の無力に対する徹底した認識があります。

恵みを受けるか否かの決定はどこまでも神の側にあり、この神の御前に人間の現実をどんな些細な一点に至るまで隠すことはできません。

しかし、その認識は同時に、神の恵みの偉大さに対して目を開くことにもなります。その様に深く神の御前に罪を認識することは、神の赦しがなければ、存在し得ない自分と、望みなき自分とを知り、そして、もし望みがあるとするなら、ただ主の恩寵にすがること以外になにもないと、彼は信仰において捉えることができたからであります。

その様な自分を神は赦すことができると信じていますので、彼はなお畏れつつ神の赦しを待ち望むのであります。神は罪を赦すことにおいて、ご自身が罪よりも力あることを示されるからであります。

「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(4節)
彼はこの祈りの言葉によって、神と人間の間にある一つの重要な真理を語っているのであります。彼にとって、生きることにおいて第一に重要なことは、神と関わって生きていくことでありますから、罪の赦しは宗教的良心を鈍らせ、眠らせてしまうものとは考えられません。むしろ赦しは、それとは正反対に、人間には捉えがたい神の偉大さを啓示するものにほかなりません。神の本当の偉大さは、人間にとって自らの罪を意識し自覚するところから始まるのであります。

人を深い淵の底に引き離してしまうほどの罪に対する神の裁きの持つ厳しさを知る人間は、赦しを信ずることにおいて、まったく真剣であります。その様な人間は、神の恵みは罪を廃棄するけれども、罪の深刻さを決して捨て去るものでないことを知っているのであります。罪と戦う心をもてとの聖なる神の要請は、罪の赦しの恵みによって減らされることはありません。むしろ、もっと真剣に罪の持つ恐ろしさを、信仰において認識させるのであります。ますます深く神を畏れ、神の恵みに委ねて生きることの大切さを学ばせ、罪と戦う心を養い育てるのであります。

そこに真の悔い改めに生きる人間の姿があります。人は、神の憐れみにのみより頼んで生きる存在であると同時に、神の聖に完全に引き合わされている存在でもあるからです。これが赦しに生きる彼の信仰であります。

5節から、祈りの形式を離れます。ここから詩人は、会衆の前での告白を述べているのであります。詩人は、神の御前に出て、赦しを受ける時を待ち望んだことを回顧しているのであります。真の悔い改めの態度は、主に望みを置き、耐えざる待ち望みの中で自らの信仰者としてのあり方を問い続けるのであります。だから、彼はその様な待ち望みの中で、何よりも御言葉を待ち望むのであります。主を待ち望むことと、御言葉を待ち望むことは切り離すことができませません。この二つは一体であります。神とその赦しの言葉を神の民は待ち望むべきなのであります。

夜回りにとって朝が到来しない日がないように、この詩人にとって神の赦しは確実に与えられるものであります。しかし、朝の光が差すまで夜回りは朝の時が来るのを待ち望みます。深い淵の底から、主を呼び求める彼の信仰の叫び、求めはそれほど真剣で、主から来る光を待ち望んでいるのであります。

そして、今やこの詩人は、自らの体験した罪の赦しを基に、神の民にとって救いは確かであるという真理を普遍化して語ることができました。この詩の結びの告白は、全会衆への救いの約束となって響き渡っています。祈り手は、その約束から自分自身の救いの確かさを得、同時に彼の個人的体験の証を得ているのであります。そして、それを彼は会衆のために役立てているのであります。このように個人の救いの体験は、すべての信仰共同体の道しるべとなるということが、旧約聖書の信仰の核心でもあります。しかし、それは旧約聖書の信仰の核心に止まるものではなく、すべての、まことの信仰の認識のしるしでもあるのであります。偉大な主の救いの体験は、常に信仰の共同体の公的な祈り財産となるということを共に覚えたく思います。

旧約聖書講解