詩編講解

54.詩編114篇『歴史を見る信仰の目』

詩編114篇は、モーセの時代に、イスラエルを神の聖なる者として選ばれた神への讃美の歌であります。神が、エジプトの地で奴隷の苦役に苦しむイスラエルの民を選び、憐れみ、モーセをイスラエルの指導者として立て、救い出し、契約を結び、イスラエルの民をご自分の民とされた、その歴史における出来事は、イスラエルの民にとって遠い昔の過ぎ去った出来事、済んだ歴史ではなく、今ここにある神の現在の出来事であり続けるのであります。この救いの出来事は、年毎に行われる契約更新祭において、新しく経験される出来事として、「再現」されました。

それは、丁度、私たちが聖餐式を守ることによって、キリストの救いのみ業を記念し、十字架にかかって死に、三日目に墓より復活された主が、今ここにその御力をもって臨在されることを覚えるように、旧約時代の聖徒たちは、出エジプトの出来事を、過ぎ越しの祭りを祝うことによって、今ここに同じ神が救いの神として臨在されることを新しく覚えてきました。

この詩編は、4連からなっています。
第1連は、1-2節で、出エジプトと民の選びについて歌われています。
第2連は、3-4節で、出エジプトの奇跡について歌われています。
第3連は、5-6節で、詩人は皮肉を込めてこの奇跡の根拠を問うています。
第4連は、7-8節で、力ある神の顕現を見上げつつ、その答えが与えられています。

第1連の1-2節から、出エジプトと選びの民の形成について見ましょう。
イスラエルの歴史は、エジプトからの救出をもって始まるのであります。しかし、この詩篇は単に歴史の記憶を残すことに関心を示しているのではありません。イスラエルの信仰においては、出エジプトの神は、歴史のどの瞬間にあっても、民をご自分の民として、愛と力とをもって臨む方として、理解されているのであります。それゆえ、この詩篇の詩人にとって、エジプトからの脱出は、どこまでも民の困窮を憐れむ助け手なる神の救いの業として覚えるべき出来事であります。そして、イスラエルの民が、この出来事を通して、主の聖なる民、祭司の王国として、立てられていることの中に、それ以後のこの民の歴史が神の救済史として捉えられているのであります。歴史を支配するのは、時の権力者でも、イスラエルの民自身でもなく、ただ神のみであります。この信仰において、歴史全体が神の救いの歴史として捉える目が養われるのであります。

そして、第2連において、この歴史理解、歴史を見る信仰の目によって、出エジプトの奇跡を見詰め直す時、神の偉大さと力は、自然に対する新たな視野を与えるものであることが明らかにされているのであります。出エジプトの際に、葦の海を渡る時、海が退いたのは、この詩人にとって、自然が近づいて来られる神の前から退き、神の全能の力の前に自らを明け渡した出来事として理解されているのであります。そのように自然は、神の尊厳と力に恐れとおののきをもって、独自の反応を示すものとして理解されているのであります。こうした自然の反応の中に、神の臨在と力が証されていると、この詩篇の詩人は認めているのであります。

そして、第3連において、詩人はこの海から水が分けられ、ヨルダン川から水が退く自然の変化に対して、皮肉を込めて、「海よ、逃げ去るとは/ヨルダンの流れよ、退くとは」と問うているのであります。

何百年も飛び越えて、この現実の歴史で起こった救いの歴史が礼典として再現される中で、この詩編詩人の歴史信仰は、遠い過去のことを現実的な現在の出来事として体験するのであります。彼にとって、歴史は、信仰においては死んだものではなく、常に動いていて生き生きとした救いの現実として意味を持っているのであります。

神は、歴史の中で、歴史を通して、生きて働かれるのでありますが、信仰において、わたしたちは、このすべての歴史の中で神に出会うことができるのであります。この詩編の作者は、出エジプトの過去の出来事を信仰において現在化することによって、過去の人々と共に同じ体験をすることができるのであります。そこから、彼は自然に支配されるものとして立つのではなく、自然を支配するものとして立つことができるのであります。ここでの彼の問いかけは、その信仰から出てきた必然的な問いかけなのであります。

そして、彼は自らその答えをもつのとして立つことが許されているのであります。最後の第4連にその答えを見出すことができます。信仰にとって自然はもはやいかなる意味でも恐怖とはなり得ず、主である方が現れる時、むしろ自然の方が恐怖に陥るのであります。

神の臨在の前には、自然も恐れて身悶えするほかありません。神はこの自然に支配される方ではなく、反対に自然を支配されるお方であられます。主の民とされた聖徒は、自然すらその方の前で身悶えして恐れ、その支配に服している卓越した力で「岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする」救いの奇跡を行われる神の御前に立たされている、その事実の中に、詩人は計り知ることのできない大きな恵みを見ているのであります。

歴史は、神の支配の中にあり、どこまでも神の恵みが啓示される希望の歩みとして、わたしたちの前にあることをこの詩篇は教えているのであります。

詩編114篇において示されている『歴史を見る信仰の目』を持つことの確かさをいつも覚えて歩む者となることがわたしたちに求められているのであります。

旧約聖書講解