エゼキエル書講解

7.エゼキエル書5章1-17節『エルサレムの呪いと神の真実』

エゼキエル書5章は、エルサレムに下される裁きについて語っています。イスラエルの民は、神の選びにより、エルサレムが「国の中心(地のへそ)」(エゼキエル38:12)であると理解していました。その理解は、5章5節の、「わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした」という主の言葉の中にも示されています。しかし、ここには、その選びの町エルサレムが、彼らを選んだ神ヤハウエから裁かれて大きな災いに遭うと告げられているだけでなく、その裁きによって、ヤハウエはご自分が「生ける神」(11節)であることを示されることが告げられています。エルサレムは主の裁きによって多くの者が滅ぼされ、災いと嘲りの的とされ、死よりも恐ろしい凄惨な姿をさらけ出しますが、そのことが主なる神が生きていることを示すことになるとは、どういうことを意味しているのか、5章の預言は、焦点をそこに置いて述べています。

さて、エゼキエルは、戦争に使う剣を理髪師のかみそりのように手にとって、自分の髪の毛とひげをそり、そのひげを秤で計って、その3分の1を、(バビロンによる)包囲の期間が終わった時に、都の中で燃やし、もう一つは、剣で打ち、残った最後のものを風に乗せて散らすよう主から命じられています。これらの行為は、異邦の占領者による国土の抹殺と荒廃が、主の裁きとして起こることを示しています。

かつてイザヤは、アッシリアによる国土の荒廃を次のように語りました。

その日には、わたしの主は
大河のかなたでかみそりを雇われる。
アッシリアの王がそれだ。
頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。(イザヤ書7章20節)

エゼキエルは、これと同じイメージで異邦人による辱めを告げています。中東世界において、髪の毛、髭、体毛をそり落とされることは、最も恥辱的な扱いを受けることを示し、バビロンによる包囲が去った後、火で燃やすことは、包囲中に餓死した者とペストで倒れた者を消滅させることを示し、そして、剣で打つのは、戦いでの戦死を示し、風に撒き散らし、剣でそれを追うのは、捕囚あるいは敗走によって追い散らされた生き残りの者を示しています。この最後のしるしについて、「わたしは剣を抜いて後を追う」(2節)と語り、それが主の審きであることが明瞭に告げられています。このように、裁きを無傷で逃れうる者がない厳しい現実が明らかにされた上で、5節で「これはエルサレムのことである(直訳すれば「これがエルサレムだ」)」と述べられています。

エルサレムが「地のへそ」(5:5,38:12)と呼ばれるのは、その町の持つ繁栄の力や文化の高さなどによるのではなく、この町が世界の主であるヤハウエの救済計画の中心とされたことのゆえです。世界が神の意思によって方向付けられていくのは、この町においてです。イスラエルは、

今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト記19章5,6節)

とよばれた選ばれた民であり、エルサレムはこの選びの務めを担う中心として、その存在理由を持っていました。主の正義はこの町に託され、神の義はそこから世界へと輝きだすべきものとされていたのです。イザヤは、この町の意義と、それを見失ってしまった現実を、次のように語っています。

どうして、遊女になってしまったのか
忠実であった町が。
そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに
今では人殺しばかりだ。(イザヤ書1章21節)

エルサレムが「地のへそ」として持っていた存在理由は、ヤハウエを唯一の主として礼拝し、ヤハウエが教える掟を守る民として生きることでした。エゼキエルは、「しかし、この都はそれら(異邦)の国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、周りの諸国より激しくわたしの掟に逆らった。まことに彼らはわたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった」(6節)と述べ、主の掟(正義)を公然と拒否し、その贈り主に逆らって、偶像礼拝によって主を討ち捨てる者となった現実を明らかにします。主の恵みの選び(救い)に預かる者は、神の義に生き、それを世界に向かって証する民としての使命を委ねられています。その責任を行使することによって、エルサレムはその中心としての意義と輝きを増すことができました。しかし、エルサレムは、この神の委託を単に軽んじただけでなく、正反対のものに転じてしまっていたのです。その行いは、異邦人が定める裁きよりも劣るほどのものであるといわれています(7節)。

それ故に、神はそれにふさわしく、「わたしもお前に立ち向かい、国々の目の前でお前の中で裁きを行う」(8節)といわれます。人が主の正義を踏みにじる時、主はその正義をもたらせるために、直ぐに来たりたもうことを、イスラエルに告げておられました。実際には、主は直ぐに来られずに、忍耐を示されることもありますが、事柄をそのように受け止めるようイスラエルを訓練されていたのです。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章5,6節)という戒めをいつも心に刻み生きることを、イスラエルは求められていたのです。

特に、人肉を食べることは、神聖法を終焉(しゅうえん)させる契約違反(レビ記26:29、申命28:53-57)とされ、古代東方の諸国家間で結ばれた禁止項目にも挙げられていました。エレミヤは、災いの預言の要素として、これに言及しています(エレミヤ書19:9)。エルサレムを襲う悲惨として、それが侵略者の手によってなされるのではなく、親が自分の命を救うために自分の子を食べる事実があげられています(10節)。エルサレムの没落の原因は、神殿を汚し、神聖法を破壊する彼らの信仰の堕落にありました。エルサレムは、主の掟を守ることによって主を尊重する者として歩まず、これを破ることによって、神の主権を侵害するものであることを明らかにしました。エゼキエルは、そこにエルサレムが告発されるべき最大の理由があることを明らかにしています。

しかし、主はそのような現実の中にも、生きて働かれる主として存在されることを明らかにされます。「わたしは生きている」と主は言われ、主の主権を侵害する偶像崇拝に塗(まみ)れるエルサレムの神殿を汚すことによって、その主権を主張されます(11節)。「そり落とす」は「むしりとる」とも訳せます。

主の民イスラエル、その都であるエルサレムが、主に選ばれたものとしてそれにふさわしく生きないなら、その選びのしるしを失うことになります。世界の主が生きておられることを証ししない民、その都エルサレムは、廃墟にされ、回りの国々には嘲りの対象にされました(14節)。通常、その国が滅び、その都が廃墟にされるのは、その国に神がいないか、いてもその神が無力であるからだと考えられますが、しかし、イスラエルの場合はそうではありません。イスラエルは、自分たちがどうあろうが、神は自分たちを選ばれたのであるから、自分たちを守ってくれる、と盲信していました。しかし神は、彼らのその盲信を、エルサレムを廃墟とすることによって打ち砕き、「すべての旅人の目にも、周りの国々にも、嘲りの的とする」ことによって、ご自分が生きていることを明らかにされると説明されているのです。

主の生きておられることは、このように選びの民の不真実(信仰)を裁くことにおいて表わされるというのです。罪に染まるエルサレムが裁かれることによって、神の御座が鎮められ、神の公正な裁きが守られることを承認することを、民に求めています。神の怒りは、決して恣意的な感情の発露などではなく、神の熱情によって引き起こされる(出エジプト記20:5)ものであることを、エルサレムは想起すべきです。

礼拝の場は、まさしく主が生きてわたしたちを支配し導かれるところです。だから、わたしたちは、礼拝において、恐れと喜びをもって、選びたもう神のみを礼拝し、神がいとわれる偶像を排し、神に仕えることを表明するのです。その思いを欠くとき、そこにあらゆる誘惑と罪を生じさせることになります。神ならぬものを、人はなぜ礼拝の場に持ち込むのでしょうか。神以外のもので自分の欲求や願いをかなえようとする、あるいは自分で考える方法で神に近づこうとする誘惑に駆られるからです。わたしたちは、現実に偶像を礼拝しなくても、祈りという恵みの手段においても、その罪を犯すことを戒める必要があります。「御心を地にもなさせたまえ」と祈る祈りを忘れて、自己の願望のみを並べることの多い祈りに、反省が求められています。

生ける神が与えてくださるその恩恵に与る道は、主の御言葉(律法)に聞き、それに従う生き方です。エルサレムの呪いは、その信仰に生きない者を裁くことによって表わされた、主の真実の表明です。しかし、それが主の裁きであることは、またわたしたちの真の希望を示しています。主の恩恵の道を信じて、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト記20:6)という祝福の下に置かれているからです。そこに立ち返る者に、希望の再建への道が示されているからです。

旧約聖書講解