詩編講解

61.詩編126篇『涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる』

この詩篇は、神の御手によってなされる転換を待ち望む、深い敬虔な信仰を表明しています。この詩篇は最初の行を二通りに訳すことが出来ます。新共同訳のように訳すか、あるいは「主がシオンの運命を元に帰らせる時」と訳すことも出来ます。それによってこの詩の持つニュアンスが若干違ったものとなります。この詩人を取り巻く現実は、いずれにせよ厳しいものがあったことが予想されます。

しかし、その悲しい現実を光り輝く未来から切り離し閉ざしている門を、この詩人は自らの手で押し開こうとしているのではありません。詩人は、物事の大きな転換、未来の門は、神の手にのみある事を知っています。だから彼の希望は、すべて、シオンのために運命の転換をもたらしてくれる神に根拠を持っているのであります。祭儀における伝承は、神による運命の転換を、昔体験したことを伝え、会衆の希望の根拠を明らかにし、会衆の祈りの拠り所を提供しているのであります。

イスラエルの信仰において、過去と現在とは、神の現在の中で互いに手を差し伸べ合う関係にあります。神によるかつての救いの支配を告白することが、祈りの式文の出発点となるのであります。

人間は神に対し罪を犯し、悲惨な現実を避けられないものとなっています。その現実から救いうるのは、神の恵みの新しい行為によって、人間をそこから救い出そうと臨まれる場合だけであります。人間は自分が罪に陥っており、そこから自ら脱出することは出来ないことを知ってはじめて、神の救いの奇跡がなんであるかはっきり見えてくるのであります。神の奇跡が実現する時、その恵みに浴しうる者は、「夢を見ている人のよう」であります。悲しむ者たちの涙を喜びの笑いに変えるのは、神のくすしき力にほかなりません。

それは、1-2節において表されているように、神の恵みの偉大さを自ら体験することを許されたという歓喜にほかなりません。神の啓示に対して、このように開かれた心を持って、会衆は救いの現実を待望するのであります。

2節後半から3節にかけて、イスラエルに対する救いの啓示において、諸国民への神の啓示も成就することが歌われています。異邦人もまた、この力強い神の前に一緒に静まり、神の偉大な行為をそのまま承認しなければならないのです。しかし、ここでは諸国民が頭を下げなければならないようなイスラエルの名誉が問題になっているのではありません。この民の救いの歴史を通して諸国民に告げ知らされた神の名誉だけが問題になっているのであります。

ですから、イスラエルはこの救いを経験し、自分を誇ることは出来ません。イスラエルは転換をもたらす神の救いの恵みを単純に信じつつ、喜んで異邦人がその御業をたたえる告白に一緒に加わるのであります。そして、神の大きな恵みに圧倒され、神が御手の中に保ち給う未来を今すでに子供のように喜ぶのであります。イスラエルの契約祭儀において、過去と未来は、神ご自身の現在において、既に生き生きとした現実となっているのであります。神への喜びは、その光の中に自らを委ねる信仰の確信において現実となり、悲しみは既に克服されているのであります。

こうした確かさを背景にしてはじめて、4節の大転換を求める祈りが現実性を持ったものとして理解することが出来るのであります。

「ネゲブに川の流れを導くかのように」という願いは、この祈りを唱える会衆が神からの奇跡以外のなにものも期待していないことを示しています。ネゲブは太陽が激しく照り付ける南の砂漠で、そこに川のように流れる豊かな水量を期待することは、自然的には不可能を意味します。しかし、まさにこの不可能事を信仰は神に期待します。

民の考えでは、神によって呪われているというこの乾燥地帯を、潤い豊かな土地に変え給うことこそ、神にふさわしく、神にのみ可能な行為でありました。だから、この比喩を用いた祈りは、癒しがたい罪の呪いの下にある民を、神が奇跡をもって恵み、赦し、その呪いから解き放ち、民に喜びの希望の新しい春をもたらせてください、という祈りとなります。この神の力を謙虚に認め、この力強い神に固く信頼することの中に、信仰の本当の力があります。そして、この信仰の力こそ、神への真剣な祈りの源であるのであります。

この会衆の願いに対する祭司、あるいは預言者の答えが5-6節に続きます。

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌を歌いながら帰ってくる

この慰めに満ちた答えは、祭司や預言者の思い付きのその場限りの慰めではありません。また、安易な慰めを意味しているのでもありません。

主イエスは、ヨハネ福音書12章24,25節において、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。この詩篇のこれらの言葉も、主イエスの言葉とその根底において同じ理解が存在しているのであります。

この詩篇の詩人は、現在の苦しみと死の中に新しい生の来るべき栄光が示唆されているのを見ているだけではありません。地中に蒔かれる種のように、死から生を創り出す神秘的な神の力(エゼキエル書37章)が、そこにすでに働いているのを見ているのであります。彼が体験するその時代の苦難に、光を与え、最終的に闇から光へと導くのは、神の奇しき生命力への信仰だけであります。そのような信仰にとって、その時の苦しみは、神の栄光を喜ぶために、なくてならない必要な過程でもあります。苦難も、死も、神の救いの業の一部でありまあります。隠れたところで発芽し、神の祝福あふれる収穫へと結実するのは、神の種であります。そしてそれは、神の約束言葉への信仰に他なりません。

旧約聖書講解