イザヤ書講解

46.イザヤ46章1-4節『担われた者たちと担う主』

46章1-13節は、45章18-25節との結びつきの中で、主の救いを述べています。特に、3節の「イスラエルの家の残りの者よ、共に」という呼びかけは、「ヤコブの子孫」(45章19節)としてのイスラエルと、「国々から逃れて来た者」(45章20節)としての諸国民とに対してなされています。それは、ペルシャ王キュロスによるバビロニア崩壊によって、解放され、あるいは逃れてきたすべ他の者たちに対してなされた呼びかけの言葉です。これまで、彼らがあてにしてきた神は、政治権力と結びついた神で、その崩壊と共に力を失ってしまう無力な、人に手で担がれていた無力な偶像の神です。第二イザヤは、彼らの崩壊以前の現実を、「偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力のない神に祈る者」(45章20節)としての歩みであったことを明らかにしつつ、45章22節において、「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ」という主の呼びかけの言葉を記しています。

この神は、ご自分が産んだ子イスラエルを見殺しにされないだけでなく、「国々から逃れてきた者」も共に担い救うことのできる、「天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方」(45章18節)として、世界を支配しておられる慈愛に満ちた神です。その神が、46章3-4節において、

あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。

ここにこの神がなされる救いと、この神が与えておられる大きな希望が語られています。イスラエルを形造った神は、生まれた日から老いる日まで、彼らの生涯を背負い続けるだけでなく、「国々から逃れて来た者」もそうされるのです。

1節に出て来るベルもネボも、イスラエルを打ち負かし捕囚としたバビロンの人々が崇めていた神です。バビロンの王ネブカドネツアルの名の頭にある「ネブ」は「ネボ」から来ています。このネボは、バビロニア王朝で最高位にある神として崇められた神です。しかし、「ベルは屈み込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ…」といわれています。これは、これらの神々とその運命を語っています。バビロンの守護神ネボやベルを表す神像は、その王国崩壊の危機にさらされると、人々の手によって台座から降ろされ、運搬用の家畜によって運ばれないと、危機から免れることができない、と言われています。王国崩壊の危機に直面する人間にとって、それだけで重荷と感じるのに、自分たちが礼拝していた神像まで一緒に助け出さねばならないという重荷を背負わされて生きている現実がここに示されています。これらの神像は「疲れた動物に背負われ」助け出されている。実に皮肉ですけれども、事実です。しかも、2節においては、「彼らも共にかがみ込み、たおれ伏す…」といわれています。実は、その神像が示す神自身、その神像と一体であって、一緒に倒れてしまっていて、その重荷を担えないというのです。そして、かつてイスラエルを捕囚としたバビロンは、今度は自分たちが捕囚の身となる、と語られています。預言者は、家畜や人の手で背負われないと自分で立つことも自分自身を救うことも出来ない無力な神が、その神を信じている人たちを一体救えるだろうかと、問いかけています。信じている人によって救われねばならない、信じている人の重荷になっているだけの存在、それがバビロンの偶像の神だ、という天地の造り主、まことの神からの宗教批判、似非宗教、偽神に対する批判がここに明らかにされています。

人生の一番大きな問題は、本当の命を生きるということです。人間を危機に直面させて、その人間に生きることの意味を与え、生かし、歩ませることのできない神は、信じる値打ちがない神です。人に生きる力を与えることができないのは、それが真の宗教、真の神でないからです。ベルやネボは無力な偶像の神だからです。

しかし、イスラエルはまことの神を信じていたはずなのに、何故、偶像の神を信じているバビロンに国を滅ぼされたのか。イスラエルの信じていた神もやっぱり無力だったのか。イスラエルも、かつて、捕囚の地でこのような疑問を抱いて生きていました。その問いに対する答えが43章21-28節において明らかにされています。イスラエルに向かって主は、「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず、イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした」といわれています。彼らは心を尽くして神を礼拝し、神を畏れ敬い、神を信頼して、神に聞くという生き方をしていなかったのです。

むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ
あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。

イスラエルは、神との最も正しい関係にあらねばならない礼拝において、罪を犯していたのです。その実際の生き方において、神の民としてふさわしくない、神の言葉に背く生き方をしていました。

「それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた」といわれています。バビロン捕囚は、イスラエルの神が無力なために起こった出来事ではなく、神に背いたイスラエルの罪故の審きとしてなされました。しかし、43章25節に、次のように慰めの言葉が述べられていました。

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

46章3-4節はまた、この約束の下で語られている言葉でもあります。ここで呼びかけられている「イスラエルの家の残りの者」とは、深く神に信頼し、神の審判を潜り抜け、新しい時代を担っていく核になる人々のことでが、神の審判と無関係な、微動だにしない強い信仰の持ち主ではありません。「残りの者」とは、戦争に破れた〈生き残り〉の〈敗残兵〉のことです。戦いにやぶれ、傷つき、廃虚の中にひとりたたずんでいる、そういう存在のことです。そして、この「残りの者」には、イスラエル以外の諸国の民も含まれています。「イスラエルの残りの者よ。共に」という呼びかけの中に、実は、わたしたちのような真の神を知らずに生きていた諸国の人々も含まれています。

そのすべてに向かって、3節後半から4節の慰めに満ちた神の救いの呼びかけは、捕囚という辛い体験をしたひとが聞いた言葉です。この言葉を取り次ぐ預言者自身、捕囚の第一世代であったなら、白髪の老人となっていたはずです。その人間が、同じ体験をして生きている人に向かって、神はずっとあなたと共にいて、イスラエルのその苦悩をご自身の問題として背負っていてくださっているのです、と語られているのです。

このように呼びかける神は担うことのできる神です。人に担われる必要のない方です。そして、これまで、イスラエルを担い続け、これからも担い続けようといわれるお方です。バビロンの神々にとって、政治的崩壊は、その無力を示す機会となりましたが(1ー2節)、イスラエルの神にとって、それはご自身が担い続けることの証明となる出来事となりました。

人間の生涯において、過去も未来も、神が担ってくださることなしには存在しません。エルサレムの崩壊を超えて、政治的イスラエルの最終的滅亡を越えて、ダビデの家の崩壊と終焉(しゅうえん)を越えて、変わることのないイスラエルの民の救いの歴史を見るためには、力強い信仰が必要です。その力強い信仰とは、その彼らの歴史を通し、それを支配し導かれる力強い神への信仰のことです。主なるヤハウエの言葉と行動には一致があります。主は、その一致において、「わたしをおいて神はない」(45章21節、46章9節)と言われます。神の歴史の連続性は、神が担ってくださる、その誠実さに基づくものとして表わされています。

そして、このメッセージは43章25節と53章、特に53章4-6節、11節との関連の中で読まれるべきです。この神は、罪を赦し、その罪を担い、自らその苦難を引き受けて、ご自分の者とした人々を救う方です。この言葉を、新約聖書はイエス・キリストにおいて成就したことを告げています。イエスの十字架は、わたしたちの罪をすべて背負って、その罪を赦すためのものです。

今、私たちは、この赦しのもとに立たされ、赦された者として、イエス・キリストにあって新しく生きる人生への招きを受けています。生まれた時からその生涯は、イエスに担われています。わたしたちを担う救い主イエスは、わたしたちの罪を背負い十字架に死なれましたが、復活し今天にありその命を与える方としておられます。わたしたちの生涯はこの復活された主イエスに担われています。新しい命が担われてある、その約束の下に、イエスが私たちに呼びかけている言葉が、マタイ福音書11章28-30節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と述べられています。重荷を負って生きている人がイエスのもとにいけば、「安らぎを得られます」といわれています。わたしたちの人生には、主の救いを与えられた後もなお多くの労苦がありますが、その意味が変わります。その労苦は、「わたしの軛」として、主イエスは担っていてくださっています。と同時に、それを主イエスの軛として受けとめる信仰が与えられています。主イエスが「わたしの荷」といわれる位置づけが与えられています。主イエスに従う者の歩み、生涯はその様に変得られています。主イエスが担っていてくださる確かさの下に、わたしの生の営みの全体が置かれています。この慰めに満ちた約束の下に全存在を委ね信じ新しく生きること、それが信仰の歩みです。

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