エゼキエル書講解

5.エゼキエル書3章16-21節『預言者の務め』

ここには、預言者の務めが何であるかが語られています。この預言者の務めに関する言葉は、エゼキエルに対してだけ語られているのではなく、すべての預言者職に就く者について述べられた言葉です。そして、もっと広く、御言葉に仕える働きにつくすべての人に求められる、使命と責任を明らかにしています。特に今日、御言葉を解く務めを担うものにとって、この御言葉は心して聞かなければならない大切な教えです。また、信徒の御言葉に聞く生活の指針となる教えが含まれています。主の御旨は、御言葉(主の律法)において明らかにされており、人はそのはかりに従って、「正しい者」と「正しくない者(悪人)」とに分けられます。預言者の罪に対する警告は、主の口からの言葉として、イスラエルの家に届けられますが、その基準は、主から既に示された「律法」の中に明らかにされています。主は、自ら示された基準に従って、時代の民の状況をご覧になり、その罪を正し、民を命へと導く目的を持って、預言者をご自身の口として御旨を告げ知らせられます。だから、罪を警告するその言葉を聞いて、罪を犯した者が悔い改めるとき、その者は罪を免れて救いを得ることになります。この預言は、説教の聴聞者として、どうあるべきか、を問う言葉であることを覚えることが大切です。

さて、エゼキエルは、ケバル川河畔で神の圧倒する顕現に接し、「ぼう然として七日間、彼らの間にとどまって」(3章15節)いましたが、「七日の後、主の言葉が臨む」(16節)体験をしました。

「七」という数字は、聖書において特別な意味と役割を持っています。それは完全を表す数であって、祭、式、喪の完全な期間を表す場合に用いられます。この場合、預言者が任職の期間が完了するまでと考えることができます。レビ記8章33節に「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない。任職式は七日を要するからである」と記されているからです。

ケバル川河畔にぼう然と立っているエゼキエルに臨んだ主の言葉は、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない」(17節)というものです。ここで、エゼキエルの預言者としての務めが三つの特徴ある言葉で明らかにされています。

第一に、預言者には「イスラエルの家の見張り」としての務めがあります。イスラエルの霊的状態を見守り、その時々の状況に応じ、主の御旨を明らかにし、主の言葉に従って民を導くための見張りの務めが、彼のなさねばならない第一の務めとして与えられています。それは、神の教会であるイスラエルに、間違った教えが入り込まないよう、イスラエルの心のありようを絶えず見守る大切な務めです。偶像崇拝や道徳的堕落、あるいは世俗的文化の中に潜む背信的なものの考え方が入り込む危険、霊的生命を脅かす危険を察知し、その問題を明らかにし、主の民を命の状態に保つ見張り人としての大切な務めです。それは、今日、御言葉に仕える牧師の務めでもあります。

第二に、預言者には「わたしの口から言葉を聞く」という務めが与えられています。主の御言葉を取り次ぎ、語る務めを持つ者は、先ず、誰よりも先に自らが語るべき言葉に聞くことに努めることが求められています。エゼキエルの場合、そのことが既に召命の出来事の中で示されていました。エゼキエルは、「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」(2章9節)「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(2章10節)が記された「巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」(3章3節)という主の言葉を聞き、文字通りその実行を求められたのです。エゼキエルは、その命令を実行した時、「それは蜜のように甘い」という体験を味わいました。それを腹におさめ、よく咀嚼(そしゃく)すると「蜜のように甘い」味がしたというのであります。「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」は、本来、口に甘いはずがありません。聞くに耳が痛い、心におさめるのに辛い言葉を、しかし、「蜜のように甘い」と感じることができるようになるには、それ(主の審き)を受けいれ、その言葉に聞く者に与えられる主の救いの現実を深く味わえる、舌、耳、心を持つ必要があります。御言葉を語る者自らが、主の言葉を咀嚼して語るとき、御言葉がリアリティーを持って響く、聞く者の心に迫る言葉を語ることができるようになります。そして、本当に主の言葉を聞かねばならないという決断を迫るものとなる、という意味を理解させる出来事であったのです。エゼキエルは、いよいよその任務に出立する日においても、「わたしの口からの言葉を聞くなら」と、その召命の日の出来事を想起するように呼びかけられたのです。

そして、預言者に与えられる第三の務めは、主の口から聞いたその言葉を、「わたしに代わって彼らに警告」することです。預言者は主の代理人として、主の警告を明らかにする務めを託されています。エゼキエルは、「わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う」(18節)という主の言葉を聞いています。悪人は主が「お前は必ず死ぬ」といわれる罪を犯している場合、その罪の故に死ぬことは避けられないとしても、預言者がその悪から避けるよう諭さないなら、「彼の死の責任をあなたに問う」といわれています。主の「見張り人」としての預言者の務めについて、33章にも詳しく述べられていますが、そこで、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(33章11節)という主の御旨が明らかにされています。預言者が悪人に警告の言葉を告げるのは、その者が悔い改めて、主に立ち帰り、命を得るためです。預言者は、語ることによってその血の責任を問われます。預言者が主の御旨を告げて警告したのに、その警告を受けた者が立ち帰らない場合には、その者は、主の警告を無視した故に、その罪を問われ死ぬことになりますが、預言者自身は、その警告を告げたゆえ故に自分の命を救う、と言われています。

御言葉に仕える職務を持つ者は、民全体の救いに関する御言葉を十分に語ったか否かによってその責任を問われますが、信徒にとっては、やはり身近な家族の救いに関して責任ある者として、主の言葉を伝えきったかどうかを最終的には問われます。キリスト者は、世に対し、また家族に対して、万人祭司・万人預言者としての務めと使命を持つものであるという自覚を持つことが求められています。

「しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う」(3章21節)という主の言葉は、今日、御言葉に仕える者が先ず聞かねばなりませんが、キリスト者として、信徒が世と家族に対して持っている責任と使命の問題としても、この言葉を聞くことが求められています。

旧約聖書講解