イザヤ書講解

2.イザヤ書1章2-9節『神の告発』

1章は、イザヤ書全体の序文にあたります。この預言は、元来、イザヤの生涯の後期に属するものであると思われ、後世に向けての預言者イザヤの遺言的な意味をもっています。

お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ
田畑の実りは、お前たちの目の前で
異国の民が食い尽くし
異国の民に覆されて、荒廃している。
そして、娘シオンが残った
包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように
きゅうり畑の見張り小屋のように。(7-8節)

このように語られる状況は、前701年になされたアッシリアのセンナケリブの侵入と、南のユダ王国がエルサレムだけに縮小されてしまっている事態が既に生じていることを示しています(Ⅱ列王18:13-16)。この時すでに北のイスラエル王国はなく(前722年にアッシリアによって滅ぼされていた)、残されたユダ王国は同じ滅亡の危機に直面していました。この預言は、ヒゼキヤの治世下にあったユダ王国が、センナケリブによって、46の防備のある町を奪われ、蹂躙されて国土の多くが荒廃した危機的な状況を背景にして語られています。かろうじて占領を免れたエルサレムは、かつて栄華を極めたダビデ大王国の哀れむべき名残として残されたに過ぎません。エルサレムももはや、絶対に攻め落とされることはあり得ない、と誇り高く自負できるような王都ではありませんでした。この預言は、そのような危機の中にあるエルサレムとユダに向けて、そのあり方を問い直そうとするものです。危機の中で、ユダの人々が預言者に期待したのは、救いの託宣でした。しかしこの期待に反し、預言者は、民が自らの罪を反省するようにとの呼び掛けでもって答えています。

2-3節には、自分の民に対する主の告発のことばが述べられています。

イザヤは、イスラエルの民に対する主の告発に耳を傾けるべき証人として、「天と地」を呼び出しています。この証人たちである「天と地」は、神がイスラエルの民を選び、彼らを契約のパートナーとし、神自ら同時にその保証人となるという、神が自発的に決めたイスラエルとの結合関係を神の側では誠実に守ってきたことを証言しています。イザヤが「天と地」という言葉で表そうとしているのは、この自然世界で、動物たちでさえその育ての親の恩、主人の恩を忘れないのに、神に選ばれ、愛されたイスラエルのその自然にも劣る忘恩ぶりです。

神は、自分の民を、父親が子供を育てるように育て上げてこられました。それゆえ主なる神は、自分の民が子供らしく感謝の気持ちを従順という形で具体的に表すことを期待しておられました。主はかつてご自分の民を導いてエジプトの奴隷の地から解放し、一切の困難から守り、このカナンの地において、周辺諸国家の間で相当な地位を得させられました。しかしこの神の配慮に対して、イスラエルの民は忘恩と反抗をもって報いました。ここで呼びかけられているイスラエルは、滅びてしまった北イスラエル王国のことではなく、主の民としてイスラエルのことです。イスラエルは主なる神との契約を破り、再三再四、異教の神々へ顔を向け、罪を犯し続けていました。いまダビデ王国は荒廃していますが、この事について告発されるべき立場にあるのは、主なる神ではなく、イスラエルの民自身であることが明らかにされています。

「主が語られる」と、イザヤが主なる神の権威あるメッセージによって、これらの事実を強調していることは重要な意味を持っています。それは、預言者は自分の考えではなく、主の言葉を語るものであることを示しているからです。

2節では、子らを大きく育てる父親に感謝をせず、その愛に応えず、背くイスラエルの罪が、親子関係の愛の絆を破る子の忘恩として語られていますが、3節では、イスラエルの民の言語道断な振る舞いが、飼い主に対する家畜の忠実さと対比されて、強調されています。牛やろばでさえ、主人を「知っている」のに、イスラエルの民は、それ以下の振る舞いしかしていないといって告発されています。牛やろばは、主人と信頼関係に立って生活し、主人の指図に聞き従います。しかし、イスラエルの民はそうしていなかったのです。旧約聖書において、主を知るということは、単に知的な事柄ではなくて、常にある実際の行動を含むものとして語られています。それは、「主の望むことを」知り、「主の望むことに従って行動すること」を意味しています。

しかし、イスラエルの民は自分の神に対して、子供として取るべき服従を拒否しました。ここに、イスラエルの忘恩と罪がありました。そして、それはイスラエルの民にとって、自殺行為でありました。イスラエルの民の独自性は、彼らが神によって選ばれ、その子として立たされているという点にありました。けっして、それ以上でも以下でもありません。イスラエルの民のこの独自性が保たれる道は、神の意思である律法を守り、御言葉に聞くということでありました。この中心的な事柄をイスラエルが忘れ続けるとき、主の怒りと審判を自ら避けえないものとする事になります。主は、この民の歴史を通して、全世界に向かってご自身の栄光を現し、諸民族が陥っている盲目状態を取り除こうとされていました(創世記12:3)。

本来なら、このように神の意思に背き続ける忘恩の民イスラエルは、死んで当然なはずです。しかしそのイスラエルの民がいまなお生きることができるとするならば、それは神の恩恵による以外あり得ません。しかしイザヤは、今はまだそのことを告げることが出来ないでいます。

何故、イザヤはそれを告げることが出来ないのでしょうか。それは、今すぐ恩恵を告げてしまうと、イスラエルの民が、この現在下された裁きを深刻に受けとめずに聞き流してまうからです。

4-9節は、 ただ神の恩恵のみがイスラエルを全滅から守った事実をのみ明らかにしています。

イザヤの叱責の言葉は、まるで旋風のように、集まっている会衆たちの上に襲いかかります。その昂ぶりを砕くためです。彼らは主の契約を破っていながら、神と論争しようとさえしていました。

「災いだ」(4節)と訳されている語は、ヘブル語では「ホーイ」と発音します。それは、もともと泣き声を表します。この深刻なイスラエルの罪を嘆く神の悲しみの涙は、父親の深いこころの苦しみ、悲しみを表しています。それ故ここに表されているイスラエルの罪を告発する神の言葉は、この神の深い愛からほとばしり出る涙の言葉として語られています。この厳しい言葉の中に見られる神の深い愛を聞くことができる耳は幸いですが、これを聞けない耳は本当に災いとなることを人は覚えなければなりません。

「イスラエルの聖なる方」という言い方は、神を表すイザヤ独特の用法です。この語によって、イスラエルの民の振る舞いがいかに言語道断なものであるかを、イザヤは告発しょうとしています。その威力と審きの力とで全地を満たしておられるお方が、ご自分によって造られた人間から侮られ、否認されていたからです。

神の聖性は、この世のすべての不純と反逆とを、燃えさかる火のように焼き尽くすものです。だからイスラエルの民の振る舞いは、その神の聖性を犯す罪として、神の裁きを不可避なものとしてしまいました。神の聖は、これを侵されたままいつまでも放置されることを許さないほど、聖なるものです。神は焼き尽くす火であることを忘れてはなりません。それにしても、一体、この民はどれほどの打撃を受けたならば自分の罪を悟り、素直に悔い改めるようになるのだろうか。イザヤは、イスラエルの民の置かれている状況の甚だ深刻なことを、「頭は病み、心臓は衰えているのに」(5節)といって、体の一番大切な器官が侵されているのにそれに気づかないでいる、彼らの霊的愚鈍さ示し明らかにしています。イスラエルの民は、体中の何処を探しても傷のないところを見出せない、一番大切な頭も心臓も傷ついている重病人の状態となってしまっている。その傷は生々しく、まだ手当てされていないままであるといわれています。

7節で、比喩から現実へと移行します。

国土はすべてセンナケリブの軍隊によって荒廃させられてしまっています。多くの町々は灰塵に帰してしまいました。イザヤの言葉は決して誇張ではありません。センナケリブ自身の記録によれば、46の要塞と夥しい小都市が包囲され、奪取されたといわれています。更に、無数の家畜と共に20万150人の人間を、異郷へ連れ去っていった、と記されています。また、ヒゼキヤは、非常に過酷な貢物を強いられました(Ⅱ列王18:15-16)。エルサレムの境のところまでの耕地は、昔からのライバルであるペリシテ人に明け渡されていまいました。

このセンナケリブの攻撃で残ったのは、ただエルサレムのみですが、エルサレムももはや絶対安全というわけにはいかなくなっていました。イザヤはエルサレムの危機的な状況を、二つの比喩で示しています。「仮小屋」も「見張り小屋」も共に、収穫期に番人がほんの数日間寝起きするための宿泊所として臨時的に建てられる粗末な小屋です。エルサレムの町はまさにそういう状態でありました。「包囲された町」はただ寂しさだけを示しています。イザヤは預言者として召命を受けたとき、主から示されたことを語る自分の言葉によって、イスラエルがますます強情になり、町々が荒れ果て、住む人もなく、家々には人気もなく、耕地は荒れ放題になるという(6章11節)の主の言葉を聞きました。その主の言葉がいままさに成就したのであります。

もし、神がその正義と公平をこの民に下すなら、「ソドムとゴモラのように」、エルサレムの町も永久に滅びてしまう運命にありました。しかし、事実はそうならなかったのです。主がわずかの生存者を残されたからです。神の審判を経て生き残ることは恩恵であります。イスラエルの民は、この恩恵によってほんのしばらくの執行猶予の期間が与えられていたにすぎません。しかしその意味を、正しく理解せず、イスラエルは神の言葉と預言者の声に耳を傾けませんでした。

それゆえ、預言者が語った災いだ、との叫びは再三再四この民において現実となりました。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。』」(哀歌3:22-23)ということは、後の時代になってはじめて判ったことです。この言葉を語った者は、エルサレムの廃墟に座して、立ち上がることもできず、希望としてその日の訪れを待っていました。

パウロはこの預言者の言葉から学んだこととして、ローマ書11章17節以下にその真理を更に敷衍しています。神は自ら憐れもうとする者を憐れます。キリストの教会の外的な弱さにもかかわらず、神の審判の後も、教会がなおも立ちうるのは、ただ神の選びの契約に対する神ご自身の誠実さによります。ただ神の恩恵のみが人を全滅から守ります。神は、わたしたちをイエス・キリストを通して救われます。この恩恵は、真の悔い改めへ導くためのものとして示され、与えられています。それは、わたしたちが子として、主人の飼い葉桶を知るものとして生きる者となるためです。神は父親の愛を持って語りかけるご自身の言葉に聞き、悔いる心を持つよう、わたしたちに期待しておられます。あのルカ福音書15章の放蕩息子のように、父なる神のもとに立ち帰ることを神は望んでおられます。そこに死んだ者が生き返ったと喜ぶ、父の喜びを共にすることができる幸いが待ち受けています。

ですからこの預言者イザヤの口を通して語られる罪を告発する神の言葉は、神にそむく者の荒廃した現実を明らかにし、神に立ち返り真の神のもとにある幸いに生きるようにとの福音への招きです。イザヤは10節で、神に背き滅亡の道を歩む者に向って、「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。わたしたちの神の言葉に耳を傾けよ。」と招いています。罪に対する厳しいさばき、告発の言葉の奥には、神に立ち返るようにとの福音の招きがある、そのことを知ることが大切です。

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