申命記講解

12.申命記10章12節-22節『神が求められること』

申命記には、「契約定式」という類型がよく用いられています。古代オリエント、とくに宗主であるヒッタイト王が、自分の封臣と宗主権条約を結ぶ際に、その条約を一定の型を伴う規格に則って常に起草していたことは古くから知られていました。それが旧約聖書の本文にも見出されること、とりわけ申命記にもこの型を伴う規格が存在するという事実が、旧約聖書学の研究の結果、確証されています。この型を伴う規格には、(1)前文、(2)前史、(3)原則の宣言、(4)細則、(5)神々を証人として召喚すること、(6)呪いと祝福、という構成要素が含まれます。旧約聖書の例では、その都度、この型を伴う規格が、必ずしもすべて備えているわけでないことも明らかにされていますが、少なからぬ本文に認められます。

12節の「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」は典型的な宗主権条約の規格の第三用法「原則の宣言」の様式に遡るものです。主なるヤハウエは、従順であることを待ち望んでおられます。「ただ、あなたの神、主を畏れる」という表現は、従順であること、神の戒めを認めることを意味します(創世記20:11,22:12)。

そして、愛に応えること、内面的に深められた帰依を、神は待ち受けておられます。それは、「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」(12節後段-13節)という言葉に見出せます。

イスラエルとヤハウエとの関係を全体として規定しようとする、独自の試みがここで明らかにされています。第一に、申命記では、ヤハウエとの関係を概念的に整序するという壮大な努力がなされています。これは、初期の時代には無縁のものでありました。ヤハウエが全世界を支配しているという論議は、バビロン捕囚を体験し捕囚の地で、捕囚の民に向かって神にある希望と慰めを語った第二イザヤの熱意を想起させます。第二イザヤは、ヤハウエを信じている信仰の拠り所を、世界創造に言及することによって基礎づけました。

主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。(イザヤ42:5)

あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方
主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。
自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。(イザヤ44:24)

イスラエルの民は、ダビデによって造られた都エルサレムから切り離され、神殿も破壊されて捕囚とされる体験をして、その多くの者が神の歴史支配と導きに対して懐疑の中を生きていました。しかし、その捕囚の地バビロンも、主なるヤハウエに創造された世界である、全世界はヤハウエのものであると語り、この創造の神は救済の神としてイスラエルを救い出すことができるという信仰をイスラエルに回復させる働きをしたのが第二イザヤという無名の預言者でありました。

それは、ヨシア王による改革がヨシア王の死によって挫折したが、ヨシア王の改革の精神を継承し、その法典を改竄せずに十戒を新たに受領したというエピソードが、モーセのとりなしの祈りによって、神のあわれみによって与えられたことを記す文脈(10:1-11)の中で語られています。

全世界は神のものであるという信仰を背景にして、族長たちの選びが逆説的に語るのが、14,15節の「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」、という言葉です。

「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(16節)、という要求は、精神化された解釈を加え、古い儀礼的な慣習に新しい意義を与えた試みとして、注目に値するものです。最初期のイスラエルが割礼においていた本来の意義については、ごくわずかのことしか知られていません。むしろ、割礼が、少なくとも当時は、聖別あるいは浄化のための行為として理解されていたことを、この申命記の箇所か、エレミヤ書4章4節の「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう」、という言葉から逆に推論しうるのみである、とフォン・ラートは指摘しています。

「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(18節)を、鈴木佳秀は、ヨシア王の後エジプトの支配下でなされたエジプトの傀儡政権(ヨヤキム)のもとでの苦しい経済状態や社会の底辺に生きる者の悲惨な状態を物語るものであると同時に、彼らを切り捨てる支配者たちの政策を批判的に暗示するもの、と指摘しているが、この悲惨な現実は、捕囚時代にも続いています。エジプトの奴隷とされていた時代とバビロン捕囚の現実を二重写しにして見る視座が19節に示されていますので、エジプトでの寄留体験をもとに、その悲惨の中で生きる孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる神を想起し、現在、バビロンにおいて同じく寄留の民として生きる異邦人への深い思いやりを持つ連帯の思想が十戒の第四戒の安息の聖別の中で語られていることから、注目する必要があるように思います。

古代の宗主権条約において、宗主国は封臣に対し従順に従うなら恩恵を約束すると語りますが、実際は、「孤児と寡婦の権利を守る」ということまでしません。しかし、世界の創造者で救済者である王なるヤハウエは、そのような愛における支配をなさるお方です。これが、地上の王と天地の創造者である神の王的支配の根本的に異なる点です。

20節以下は主への賛歌の様式へと移行しています。エジプトに降った族長たちがわずか70人であったことに触れ、最後に「今や、あなたの神、主はあなたを天の星のようにする」という言葉は、アブラハムに与えられた約束の成就を約束するものとして告げられています。

そして、ヤハウエがアブラハムに与えた約束には、「あなたを祝福する人をわたしは祝福する」という言葉が含まれていました。そこに寄留する諸国民もまた、アブラハムの神であるヤハウエを、あなた(イスラエル)とともに賛美するなら、彼らもまた主の慰めを受けるというメッセージもここから読み取ることができます。それは、今の時代を生きる、小さき者とされている、世界に散在するキリストに結ばれたものに大きな慰めと励ましを与える言葉として聞くことができます。

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