申命記講解

8.申命記8章1節-10節『主の口から出る言葉によって生きる』

8章1-6節は、聞き手に、荒野を旅した労苦を想起させる説教です。荒れ野時代の歴史は、父のような神の導きの中で、イスラエルの民が成熟した信仰の認識を持てるように、ある時は欠乏を通して、またある時は祝福を与えて訓練する、神の見事な救いが示された時代であったと説教者はその認識を示しています。

16節において、それは単にイスラエルに労苦をしいただけでなく、神による試みであったことが明らかにされています。荒れ野時代におけるマナの物語は、出エジプト記16章とは違う理解、解釈が示されています。出エジプト記には、マナを食べて養われた奇跡の出来事として、神がなされた不思議な導きを叙述していますが、ここ申命記においては、神がイスラエルの民にマナを食べさせたのは、人はこの世におけるパンだけで生きるのではなく、自分たちに語られた神の言葉により頼んで生きるものであることを教えるためであり、それこそが真の目的であったことを明らかにしています。「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためであった」と3節にそのことが明言されています。

主(ヤハウエ)は、人を賄う多くの手段をもっていますが、この場合はマナによってであった、と理解すべきであるという議論もありますが、申命記の神学の地平によれば、イスラエルにとっての生命は、ヤハウエの言葉であると考える方が、より自然な理解であるということができます。

それは、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:11-14)ものとして与えられたものであり、「それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」(申命記32:47)ためのものでありました。
詩編78:23-25では、「神は上から雲に命じ、天の扉を開き、彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。」と、マナが「天使のパン」あるいは「天の穀物」として理解されています。

パウロは、Ⅰコリント10:1-7において、「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」と述べ、イスラエルが食べたマナは、霊的な食べ物、飲み物を表し、霊的な岩であるキリストの命の守りを表すものであったが、大部分のものは偶像崇拝の罪を犯し、荒れ野で滅ぼされることになったと言って、キリストを試みることのないようにという警告の言葉として、これらの出来事をおべるべきこととして語っています。そして、13節においては、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」、6節においては、「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」と述べ、試練の中での信仰の戦いの在り方を示す、一つの警告として受け止めるべきこととして語っています。

荒れ野での主の守りと導きは、「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」(申命記8:4)という恵みの業であったことが明らかにされています。衣服や靴が古びることがなかったという奇跡について、旧約聖書においてこの箇所以外で述べられているところはありません。

「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」(3節)は、イスラエルが絶えず覚えるべき、主の民としての信仰の在り方を強く教えるものです。イスラエルは、そして、キリストに選ばれ、結びつけられて生きる者にされているわたしたちは、主の口から出るすべての言葉によって生きる者にされています。それは聞くだけでなく、聞いた御言葉に固く立って生きること、この世での悪魔の誘惑を受ける時、その誘惑を、神の言葉で退ける信仰の根本的なあり方が教えられています。主イエスは、荒れ野で、40日間断食した後、空腹を覚えられて、誘惑する者から、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」という誘惑を受けた際に、この申命記8章3節の言葉を引用し、悪魔の誘惑を退けたことを覚えましょう。

申命記8章5,6節には、「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」と述べられています。

主に選ばれた民としての歩みは、主のすべての御言葉に聞き、御言葉に生きることによって、主にある永遠の命の祝福に与る道です。地上での荒れ野の旅は、主の訓練の時であることを心に留めることが大切です。世を旅するわたしたちの信仰の歩みは、同じように主の訓練の場として理解し、その中で、主の御言葉に聞き、生きるのです。申命記の表現によれば、「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」という教えを大切に生きる道であります。

わたしたちは、命のパンである、「主の口から出るすべての言葉によって生きること」をいつも学びつつ、そのように生きるのです。そこにキリストにある命の輝きの素晴らしさを、豊かに、深く知るものとされるのです。

神はそのように生きる者に相応しい、地上での喜び祝福を与えてくださいます。イスラエルの民にとって、7-10節において、どのような祝福が与えられるか、明らかにされています。そこで示されている祝福は、この世的、地上的なものですが、その約束に示されている終末的な祝福は、身体的な恵みと同時に、霊的な祝福の豊かさに同時に与るものにされる、というものです。キリストの十字架(死)と復活は、魂だけでなく肉体も霊の朽ちない体に復活するのです。申命記のこれらの言葉は、新約時代を生きるわたしたちにとって、この射程で見る時、まさに希望の言葉としての輝きを与えてくれます。

旧約聖書講解