エレミヤ書講解

15.エレミヤ書8章14-23節 『審判と嘆き』

8章のこの残りの部分は、17節までにおいて、北からの敵の侵入という審きが語られ、18-23節において、エレミヤの嘆きのことばが語られています。

14~17節にかけて、北からの敵の侵攻の様子が劇的に描かれています。そこで示されている未来図は、4~6章に記されていることと似ていますが、それらとは異なり、もっと後の時代のものであると思われます。なぜなら、ここには、それまであった救いへの希望は全く見られず、重苦しい絶望の調子が全面に出ているからです。

14節において、エレミヤは絶望へ脅かされた国民自身の口で、その事態に至って原因を語らせています。

恐るべき北からの侵攻を受け、民は恐ろしさと絶望のあまり、最初は、その場所にへたりこみ、身動きもできずに釘付けにされてしまいました。そして、しばらくして、それでは危ないと気づいた国民は、釘付けにされたその場所にじっとしていられなくなり、互いに呼びかけ合って、堅固な町の城壁の中に逃れようとします。しかし、そこにも敵の激しい攻撃の手が迫っていました。だから、結局はこれも無駄に終わるということを人々は知っておりました。けれども、その事を知りつつも、人々はじっとしていられないので、そうせざるを得ないです。判断力を失い、パニックになっている人々の姿が描かれています。

「黙ってそこにいよう」は、「そこで死のう」と訳すことができます。次の行の「黙らせ」も、「死なせ」と訳せます。もはや、死の覚悟をしなければならないほど絶望的な状況がそこにはありました。しかし、人々は、自分たちには何故救いがないのかということも知っていました。なぜならそれは、他でもないヤハウェご自身がご自分の民を死に至らしめられるからです。

ここに語られていることは、敵のもたらす危機災難の中で神の審判は成し遂げられるということです。ここにおいて問題になっているのは、「我々が主に罪を犯したからだ」という言葉に表されているように、罪に対するヤハウェの審判です。ここで民は、契約の定めの破壊こそ罪であることを自覚しています。だからといって、罪を悔い改めているわけでありません。ここでの民の「我々が主に罪を犯したからだ」という言葉は、悔い改めの告白ではなく、単に、その罪の認識を示しているに過ぎません。

15節においてさらに、平和も癒しも望めない、「恐怖のみ」が存在する絶望的な状況が語られています。

16節において、このように国民をパニックに襲った北からの脅威が何であったのかが示されます。ダンはかつての北イスラエル王国の最北に位置していました。そこから、敵の軍馬のいななきが聞こえてくると言います。この敵が誰であるのか具体的に示されていません。その敵を暗示するのは「彼」を示す人称語尾だけです。すべてがこの「彼」のことを語りながら、誰もが彼を直接名指しできないでいます。「彼らがやって来る」ことは、町の中にも外にも、すべての住民に死の恐怖を呼び覚まします。それは、人々に、獰猛な獣の餌食となって食いつくされるような印象を強く与えました。

この北からの侵攻による審判は17節で閉じられますが、その閉じる言葉は主の言葉です。つまり、ここで主ご自身が語られることによって、16節まで記された出来事が、実は神の審判なのだと宗教的な解釈がなされているのであります。この絶望の出来事に、その理由がこうして述べられることによって、神がご自分の民の上に容赦なく審判を招来させるのだということを、今、ここで神自らが認証しておられるのです。ここでの行為の主体はどこまでも神です。

この不可避な神の審判という希望のない暗い未来を見つめる預言者エレミヤの内面にどのように影響を与えたか、それを、わたしたちは18~23節に記されているエレミヤの嘆きの言葉から知ることができます。

しかし、これらの嘆きは厳密に言えば、エレミヤ自身の嘆きではなく、民の嘆きです。彼はただ、民の嘆きに同調しているにすぎません。民の嘆きの原因は、20節によれば、困窮と飢饉です。エレミヤはこの民の苦しみに十分に耳を傾け、同胞たちの重荷を共に担おうとしているのです。もはや医者も助けようがないといって投げ出した患者のように、また効き目のある薬もない瀕死の重傷を負った人のように、苦悩する民の体は、重体でありました(20節)。

エレミヤは、「遠い地から」叫び声を耳にします。「主はシオンにおられないのか。 シオンの王はそこにおられないのか。」(19節)この問いかけは、エルサレムへの巡礼者が祭儀に加わって唱える言葉を変形したものです。この言葉には、シオンに座す「王」なるヤハウェとの出会いの希求、或いはシオンに見出されたものはいつもそのような救いであるであるはずなのに、それどころか全くその逆であり、神をもはや全く見出し得ないのではあるまいかという絶望とがないまぜになっています。

しかし、この絶望は彼らの全く思い違いでありました。ヤハウェは、実は、そこにいて、ご自身を啓示されているからです。そして、彼らの不安に満ちた問いに対するヤハウェの応答は、聞く者を慄然(りつぜん)とさせるような問い返しの言葉でありました。

なぜ、彼らは偶像によって
異教の空しいものによって
わたしを怒らせるのか。(19節)

主のこの言葉は、彼らの偶像崇拝に対する、滅亡をもたらす審判を含んでいます。ここに、エルサレムで彼らを待ち受けているのは彼らの望む救済ではなく、審判であるということの根拠が示されています。彼らがそこで捧げる礼拝、信仰が、主の目にはご自身に対するものではなく、異教の神であり、その偶像に対するものに成り下がっていたからです(6章20節、7章23節の視座からこの言葉は語られています)。

20節は、契約更新の祝祭を背景に語られています。パレスチナでは収穫の時期は、穀物の刈り入れから秋の葡萄摘みまでです。それは、祝祭の時でありました。この祝祭は、秋の契約祭をもって最高潮に達し、そして終わります。20節が描く光景は、人々によって常に期待できると計算に入れていたヤハウェの助けが止んでしまったために、収穫のない空しい手と心で呆然として立ち尽くしている模様です。

ここで預言者エレミヤは二重の打撃を受けています。エレミヤはその審判を語らなければならないだけでなく、その審判を共に受けるものとして、この二重の苦しみに打ちのめされているのです。エレミヤは繰り返し、「娘なる我が民」(21節)と呼んでいます。ここにエレミヤの共感する愛の心が現されています。そして、エレミヤはその深い愛の心を持つ故に、その嘆きはどこまでも深く激しかったのです。エレミヤは民を慰め、民の罪を癒したいという熱情に促されていたのです。しかし、そのエレミヤでさえも、癒しはありえないと感じる事態を前に、慰めを語ることを断念して佇(たたず)んでしまいます。「なぜ、娘なる我が民の傷はいえないのか」というエレミヤの問いは答えられません。そのことによって一層事態の深刻さが示されています。

エレミヤに残された唯一のことは、「娘なる我が民」の打ち殺された者たちのために、やむことなく号泣することだけです。

わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(23節)

エレミヤは真の悔い改めをせず、主の助けが得られず、敵の手により破滅していく民の現実を、このように自身の問題として共苦しています。わが娘を愛する父親のように、深いため息と号泣をもってその苦しみを共にするのです。このように自らの深い心の痛みを打ち明けるエレミヤの嘆きには、神を語る言葉がありません。けれども、実はそのことも、神の啓示の領域に属するものであるということができます。なぜなら、エレミヤが人間として存在しているということを赤裸々に語るその嘆きにおいてさえ、エレミヤは神の啓示の担い手であり続けるからです。また、啓示の受け取り手でありながらも常になお、エレミヤは自らが告知せねばならない事態に自分も捕らえられてしまう人間であり続けるからです。

共に苦しむ預言者のこのような人間のあり方こそが、まさに聞き逃してはならない神の厳粛さを語っています。しかし同時に、それは、神の愛の言葉を語っています。それは、神ご自身の使者を自分の身代わりとして苦難に渡される、ということを示しているからです。神の使者である預言者が、審きを受ける民の苦悩を共苦することは、その苦しみを神もまたともに担われるということを示しているからです。この点において、エレミヤは、神のために人間として共に苦しむということを通して、来るべき救い主イエス・キリストを指し示し、また証言しているのであります。

旧約聖書講解