エレミヤ書講解

50.エレミヤ書31章31-34節『新しい契約』

この短い章句は、エレミヤ書の最も重要な章句の一つであるといわれています。この箇所で約束された新しい契約は、イエスの生涯と苦難において、その成就を見たと新約聖書は見ています(ヘブル8:8-12、9章、Ⅱコリント3:5-18)。主イエスは、十字架の上にご自身を捧げる時に、新しい契約がはじまることを告知されました(マルコ14:23-25)。このようにエレミヤ書に記録されている「新しい契約」は、新約聖書の契約理解の根幹に関わるものとして注目すべき事柄です。

「わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」(31節)と主が告知する「新しい契約」の背景にあるのは、シナイで神とイスラエルとの間で始められた契約です。出エジプトの時、シナイで結ばれた契約とその存続のために必要なことは、その契約が課した律法、即ち「契約の条項」に対するイスラエルの従順でありました(エレミヤ書11章1-8節)。

エレミヤ書11章3-4節の言葉において明らかにされているのは、契約の律法に従う者に「祝福」が、しかし、従うことに失敗するならば、「裁き(呪い)」が必然的に伴うということです。その祝福と呪いの長いリストが申命記に記されています(特に28章参照)。申命記的歴史書(申命記から列王記下まで)は、イスラエルが終始一貫して、契約のその条項と一致した生活をすることに失敗したのか、そしてどのようにして、イスラエル王国とユダ王国が主の裁きを受けたのかを記録しています。

イスラエルが神の選びの民として、常に問われた問題は、律法に対する服従の問題でありました。しかしながら、イスラエルの過去を振り返って明白になったのは、イスラエルの民が律法を単に拒んでいただけでなく、律法に従うことができなかった、という事実です。過去を振り返る預言者、申命記的歴史家をはじめ、多くの聖書記者の認識において共通しているのは、イスラエルの信仰にとって最大の危機を造り出したのは、イスラエルが律法に従うことができなかった点にあるということです。イスラエルが、まさにその本姓において聖でありえないとすれば、どのようにして神の聖なる民でありえるのか、という問いを新たに生みます。エレミヤはこの点について、13章23節で表現しています。

エレミヤの示すこの認識は、クシュ人がその皮膚の色を変えることができず、豹がまだらの皮を変え得ないように、悪に染まったイスラエルの民の心は悪の本性に満たされており、もはや正しい者として、律法を行うことができないというものです。イスラエルが自ら心の腐敗というこの現状を変え得ないとするなら、神の恩恵の力があらわされる以外に、彼らが再び正しい者として歩む可能性は閉ざされたままであるということが明瞭になります。そこでエレミヤは、33節で主の言葉を明らかにしています。

神が来るべき日に結ぶ新しい契約においては、神自身が恵みによってご自分の民の内的本性の中に必要な変化を起こさせる、といわれています。エレミヤとほぼ同じ時代を生きた捕囚の民の中に生きたエゼキエルも、これと類似する新しい契約について告げています(エゼキエル書36章26-27節)。

神と民との関係を具体化する手段は、今までのものと根本的に異なっています。「古い契約」では、神は自分の意思を民に表わすために、石の板に律法を書き記しました。しかし、イスラエルはこれにつまずきました。神の律法に服従することに失敗したのは、神の律法に服従しようとする意思とその能力が、そもそも彼らにはなかったからです。しかし神は寛大なる赦しによって、この律法をつくり直そうとはせずに、神はこの律法を民の心の中に刻み込む、という恵みを示されました。このように律法に服従する意志と能力の両方を授けられるので、今後は、神の民のひとりひとり、全員が神を知るようになり、自由な意志によって、自発的に神を愛し、神に服従するようになる、といわれています。

それによって民の側で34節のような変化が起こることが明らかにされています。人びとは、もはや互いに教えあって、神に対する認識を新たに呼び起こす必要がなくなります。そして律法を伝えたり、解釈したり、訓示することもいらなくなる、といわれています。律法はこのようにしてもはや民の間には存在しないものとなるからです。これは、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という赦しの言葉と共に告げられています。彼らが悔い改めてそのような恵みに与ったのではありません。悔い改める心を持たない、否、持てない、彼らに、罪の赦しを宣言し、律法に服従する意志と能力を持つ心を彼らの中につくり出す神の恩恵の力によって、すべてのものが神を「知る」ように変えられるというのです。

しかし、捕囚後の民の歴史に注目すると、この約束と正反対のことが起きたことがわかります。律法は相変わらず、神と民の間に立ちはだかっており、律法を解釈したり、律法を厳格に教え込むことが当時も大きな地位を占めていたからです。後期ユダヤ教の律法学者たちの活動は、まさに「互いに教えあう」ことに留まっていました。

主イエスは、聖餐制定とこのエレミヤ書の言葉とを直接結び付けておられます(Ⅰコリント11:25、ルカ22:20)。主イエスは、「新しい契約」をご自身の血による贖いによる恩恵に結び付けて示しておられます。この約束の言葉は、シナイ契約の終わりを示し、神の歴史が新しい時代を迎えたことを告知しています。エレミヤ書31章34節が明らかにしているように、罪の赦しこそ、イエス・キリストの使命であったとイエス自身、また彼の共同体は理解しました。エレミヤ書の約束にふさわしく、イエス・キリストによる罪の赦しによって、新しい救済時代が基礎付けられたのであります。パウロはこれを、文字によらない、霊による心の再生として語っています(ローマ2:29)。

旧約聖書講解