ヨシュア記講解

4.ヨシュア記5章2節-15節『神の書の新たな一頁の始まり』

5章2-15節は、神の臨在と導きによりヨルダン川を渡ったイスラエルが、約束の地を神の恵みによる贈り物として受け取る前に、それを受け取るに相応し聖なるものとして、準備の時を、どのように過ごしたかを書き記し、「神の書の新たな一頁の始まり」を告げています。そのことが、三つの物語を通して告げられています。

最初にギルガルにおける割礼について述べられています。

「そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。ヨシュアは、自ら火打ち石の刃物を作り、ギブアト・アラロトでイスラエルの人々に割礼を施した」(2,3節)、という言葉は、割礼が主の約束の受領者、担い手となるための重要な儀式として行なわれたことを明らかにしています。

割礼が行われた場所、「ギブアト・アラロト」は、「陽(包)皮の丘」という意味を持っています。この名称が、ヨルダン川の石と同様、この儀式が行われた場所の重要な意味を持つものとして記されています。なぜこの時割礼が施されることになったか、その理由が4-7節において、次のように説明されています。エジプトを出て来たすべての民、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだ。彼らは皆、割礼を受けていたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていなかったから、割礼を受ける必要があったという説明が先ずなされ、さらに、出エジプトの第一世代の戦士たちはすべて死に絶えたこと、彼らが主の御声に聞き従わなかったため、先祖たちに約束された「乳と蜜の流れる土地」に、その第一世代は入れないと主は誓われたので入ることができなかった。だから、今、ここで「ヨシュアが割礼を施したのは、神がその代わりにお立てになった彼らの息子たちであって、途中で割礼を受ける折がなく、無割礼だったからである」(7節)という説明がなされています。

これらの説明文は、約束の地征服という行為そのものが、主の御業をたたえる礼拝式としてなされるものであって、その礼拝式に参加を許され、与ることが赦されるのは、割礼を受け、主の前に聖なるものとされた成年男子に限る、という神学的な理解を示しています。この神学的理解は、もともと割礼は成人年齢に達した男子に施されていた歴史を物語り、イスラエルの若者が割礼を施されて初めて、「共同体」に受容されたことを示すものでありました。だから、割礼の実施が幼年期に移行するのは(出エジプト記4:24―26)その発展過程の第二段階であることを示しています。

ここには、割礼によってイスラエル人は祭儀に参加する資格が与えられ、未割礼者は祭儀に参与することは許されないという神学的理解が徹底的に明らかにされています。この神学的理解によって、この箇所は、聖なる地に入ることを祭儀的出来事であることを示しています。その位置づけは、「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」(3:5)、と類似しています。イスラエルが滞在する聖所は、聖別式(割礼)が挙行される場所であり、その聖別式によって、イスラエルは、聖なる地の占領を遂行する一員となることができたのです。それは神の領域との結びつきを体験する預言者の召命体験(イザヤ6:6―8、エレミヤ1:9-10、エゼキエル3:1-2)とも似ています。また、ヤコブが新しい名を授けられた時の神の神秘的な介入(創世記32:27ー31)をも思い起こさせます。そして、この物語は、割礼がイスラエルにおいて既に慣例行事となっていることを知っている時代に記されたことを示しています。そして、カナン征服の始めに割礼を受ける物語は後代の人々に、如何に強い関心を集めたかをも物語っています。

割礼は「火打ち石の刃物」で施されました。その祭儀においては、創造主の手から純粋に与えられたものとして、自然のままの石、あるいは土でできた祭壇(出エジプト20:24-25)で行なわねばなりませんでした。もし人の手で造られた「刃物」の助けを借りれば、主の聖が「汚される」ことになってしまうからです。だから、2,3節で用いられる動詞「アーサー」は、新共同訳のように「作る」ではなく「用意する」と翻訳されるべきです。

割礼には危険が伴いました。傷口から熱を発するため、「その傷がいえるまで、宿営内の自分の場所にとどまった」(8節)と言われています。通常は、その傷の痛みは3日間続きました(創世34:25)。こうして、主の時にカナン征服をする準備の第一段階が整えられたのであります。

割礼の次に物語られているのは、過越祭(10節)と除酵祭(11節)についてです。

割礼がなければ過越祭への参加は考えられません。出エジプト記12章43,44節でも、過越祭に参加するためには、奴隷や異邦人は割礼を受けなければならないという律法が定められています。過越祭は、もともと牧羊祭で、聖書の伝承によればエジプト脱出と密接に結びついています。祭りの日はニサン(かつてはアビブ)の月の十四日の夜、つまり春の満月の夜です。それが後に復活祭の期日の確定にまで影響を与えたことはよく知られています。

10節は、ギルガルとエリコの平野について言及し、約束の地における最初の過越祭の場所を示しています。過越祭そのものは家族共同体の祭でありますが(出エ12章)、申命記16:1以下では、それを聖所で祝うという規定が設けられています。またヨシュア王の過越祭を示す列王記下23章12節以下では、士師時代以後過越祭の正しい挙行が忘れられていた事実が記述されています。

11節は、祭りに関する律法の中で、過越祭は除酵祭(種入れぬパンの祭)と結びついていたことを示しています。つまり、牧羊者の春の祭が農耕者の祭である「除酵祭(種入れぬパンの祭)」と結合され、イスラエルの祭がカナンの祭と統合された、ということもできます。この二つの祭がその根本において異なる内容を統合している実例は、家畜の「初子」と畑の「初物」について記す出エジプト記12―13章の祭の律法に見られます。そこでは二つの祭は、出エジプト伝承と結び付けられていますが、ここでは、種入れぬパンを食べることと、培った穀物を食べることは、約束の地で収穫された最初の産物であることに特別な意義を見出しています。この二つの祭の結合は、荒野やベドウィンに由来する祭が、この地の住民に固有の慣習と結びついたことを示し、特に、このヨシュア記の記述においては、半遊牧民が農耕民となることを示しています。しかし、それは文化的融合の結果として成し遂げられたのではなく、それを成し遂げられるのは、主なるヤハウエです。ですから、同一の神がこのことを成し遂げたことを覚えることが重要です。

この見方の正しさは12節の言葉において明らかにされています。荒れ野時代のイスラエルを支えたマナは、ここで絶えることになります。これは二通りの意味を有しています。第一に、それによって荒野時代に終止符が打たれことを意味します。第二に、それは、主の慈しみによる導きの下にあることを示しています。ですから、天からのパンを食べることと約束の地で生産されるパンを食べることの間には断絶がないのです。後者が前者に変わることは容易であるし、12節はそのように読まれるべきことを指示しています。人間はいつでも、「神の恵みの御手」(ネヘミヤ2:18)によって守られ生きていることをいつも覚えるべきなのです。

新しい土地への侵入は神による業としてなされました。ですから、これは単に民の歴史の新たな幕開けではなく、「神の書の新たな一頁の始まり」なのです。

13―15節は、エリコでの神との出会いを記しています。「エリコ」に聖なる言葉(ヒエロス ロゴス=聖所の創立物語)が存在する事実を、15節の「マーコーム」(場所)と「コーデシュ」(聖なる)という語が示しています。マーコームは、しばしば聖なる場所を指し示し、コーデシュは聖所を意味します。ギルガルとエリコが共に聖所の領域として存在していたことを、これらの言葉は示しています。

ここで、ヨシュアは、思いがけずひとりの武装した人物に出会います。それが予期せぬ出来事であり、その頃あまり知られていない場所で起こったということを「目を上げて、見ると…」、という言葉が示しています。ヨシュアは、勇敢にも、この人物に近づき、「あなたは味方か、それとも敵か」と尋ねています。彼は、このヨシュアの問いに対して、「わたしは主の軍の将軍である」(14節)と答えといます。「主の軍」は、「天の軍勢」のことで、それは大勢の天使からなり、その長は後の時代にはミカエルと呼ばれ、このような軍勢の中に、戦車に乗って天に上ったエリヤも加わっている、と旧約聖書は考えています(列王下2章)。

ヨシュアは、地にひれ伏して「主の軍の将軍」を拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と尋ねますが、その答えは与えられません。しかし、ヨシュアは地にひれ伏したまま面を上げないで、自分が神と人との隔たりをわきまえていることを表現しています。
その後、ヨシュアは、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(15節)、という告知を、この主の使者から受けています。そして、ヨシュアは、主の使いであるこの人物に恭順の意を表しています。

聖なる場所とは、神と人との間に何かが起こった場所のことです。その「何か」をわたしたちは知りません。しかし、それは、これから起こることが聖所の空間の中で起こる出来事として、明示されています。「履物を脱ぐ」服従によって、ヨシュアはエリコの征服に着手します。しかし、鞘から剣を抜いたのはヨシュアではありません。「主の軍の将軍」です。

5章の三つの段落は、それぞれ重要な課題を有すると同時に、共通の重要課題を有しています。これらは皆ギルガルの領域にある特定の場所と結びついていたのであり、最初の土地取得の出来事を礼拝的な文脈の中に設定され、そのようにして救済史の中に組み込まれています。こうして、カナン征服は、その導き手である主を信じるイスラエルと共にあり、その勝利は天の軍勢の力によってもたらせられるものであることを、この三つの段落で示されています。それは、これから行なわれるカナン征服の勝利のすべては、神の恵みによるものであり、その恵みは、主の民として、その恵みが新しく告げられる礼拝の中で、主の御言葉に聞く者たちに与えられるものであることを示しているのです。

旧約聖書講解