イザヤ書講解

3.イザヤ書1:10-20『真実の神礼拝』

この箇所の主題は、『真実の神礼拝』です。内容的には、先行する9節までと密接に結びついています。ここでも、エルサレムの絶望的な状況が、神の審きによって、この地上から消滅させられた都市ソドム、ゴモラと対比されています。ソドムとゴモラの滅亡は、その不道徳という悪に起因することが創世記18章の記事から明らかです。

しかし、ここで告げられる審きは、預言者の言葉に耳を傾けずに、空しい礼拝を続けている民と、その頂点に立つ貴族たちとに向けられています。イザヤは、神から遣わされた預言者として、形だけの空しい神礼拝している彼らを告発しています。しかし、イザヤは神から与えられている自分の権限においてそれを語ろうとしていません。また、自己弁護のために語っているわけでもありません。ここでも、イザヤは「主は言われる」(11、18節)、「主の口がこう宣言される」(20節)というように、主ご自身による言葉として語っています。イザヤは、主の民とされているイスラエルに、神の前でその罪を直視させ、警告の言葉を与え、民がこれ以上神の審きを受けないように苦闘し、民を真の神礼拝へと招いています。

10節で、イザヤがエルサレムの絶望的な状況を、ソドムとゴモラと対比させているのは、ソドムの住民が神の使いに乱暴しようとしたように、エルサレムの住民が同じ様にイザヤと対立していたからです。民も指導者たちも共に神の教えに耳を傾けなければならない、これがイザヤの変わらない使信です。

11-15節で、エルサレムの絶望的な状況の何であるかが明らかにされています。エルサレムの絶望的な状況は、民の献げる犠牲の誤用による礼拝の形骸化にありました。民は、自分が献げる犠牲によって、自分は敬虔なものとして生きていること、また、神に対して従順な者であることの証明となっていると勝手に考えていました。確かに、彼らは律法に定められていた通り、新月祭、安息日、祝祭などをきちんと守っていました。それは、形式的に見れば、律法に照らして何の落ち度もない、立派な神礼拝であったかもしれません。

しかし、主は、「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか」「雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」と言われます(11節)。そして、14節には、目の前に山と積まれたその犠牲を見られて、神が、うんざりされている様子が記されています。民は主を見ようとして神殿へと急ぎますが、その求めは歪んだ形で、思いと言葉と行いはばらばらとなっていました。両手は神に差し延べられて祈りが捧げられましたが、神の前に悔いし砕けし心で、神の御前にまかりでて犠牲と祈りとを捧げることが忘れられていました。

神は、こういう礼拝行為に対して、「むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。」(13節)と言われています。更に、その空しい祈りには、「目を覆う」「決して聞かない」(15節)といわれます。

かつてサウル王は、主の御声に聞かず、自分の思いで主の前に犠牲を捧げて自らの敬虔さを証明しようとしました。しかし、サムエルは、「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。(サムエル記上15:22)と告げ、サウル王に向かって主の審判の不可避なことを語りました。

イザヤは、ここでサムエルがサウルに告げたのと基本的に同じことを述べています。イスラエルは、この王の失敗を教訓として学ぶことに失敗した為に、滅亡を免れることが出来ませんでした。しかし、サムエルの審判の言葉にもかかわらず、サウル王に対する神の審判はすぐに下されませんでした。それは、悔い改めを求める招きでもあったので、その審判は引き延ばされました。預言者の審判告知は、悔い改めて神の救いに預かるための福音です。だから、イザヤは、審判と同時に、悔い改めへの招きをしているのです。

しかし、招きの前にその罪が指摘されています。その罪がどれほど大きいものであるか、15節で、容赦なく「お前たちの血にまみれた手を」と言われている言葉を見れば、それは十分想像できます。サムエルは、サウルに、それは「偶像礼拝の罪」と言いましたが、ここでは、「お前たちの血にまみれた手」と言われています。神に清められるはずの捧げ物と献げるその手が「血まみれだ」と言われているのです。

偽りの心で、ささげものを携えてきても、それは「血まみれだ」と言われます。主はその者に向かって、その汚れた手と体を自分で「洗って、清くせよ」(16節)と言われます。日々の生活の破れを放置して、御言葉に生きようとしない、それを打ち消す生活をしながら、平気で形だけの礼拝をして事たれりとしていたその態度全体が、ここで問われているのです。エルサレムには正義と公平が影をひそめ、悪がはびこり、貧しいもの、孤児、やもめたちが虐げられる現実が存在していました。

元来、犠牲という行為は、神の御前における献身と和解を示しています。それに相応しい心と生きる姿がともなっていなければ、それは神を侮辱し、怒らせるだけのものとなります。自分勝手な感情の高揚による礼拝は、神の目に無意味なもので、罪とされます。

16節で、「洗って、清くせよ」と言われていますが、罪は水で洗い流せるものでありません。また、将来、良い行為をしたからといって、罪が取り除かれる訳でもありません。罪は、神の前に裁かれるか、赦されるかいずれかです。しかし、神の前に立とうとする者には、それは赦されねばならないものです。それ故イザヤは、神の赦しにあずかる道を示します。

18-20節において、主からの条件つきの恩恵の申し出が語られています。
神の赦しの力は、人間の罪の重さによって影響されることも、制限されることもありません。神は罪を根絶させる力さえお持ちです(Ⅱコリント5:17)。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」(18節)といわれています。

「主の口」(20節)によって語られる赦しの言葉に大きな慰めがあります。民が悔い改めて主の下に立ち帰るなら、神はイスラエルに下すと言われていた審判を思いとどめ、祝福されます。

しかし、この招きは、信仰の応答を求めた条件付のものです。神の救いの力に条件や制限が有るのではなく、神は、私たちの救いの条件として、御言葉への信仰の応答を求めておられます。これは、神が定められたものである故に重んじなければならないのです。

今日の御言葉は、神の前におけるわたしたちの生き方が、本当に神の御言葉を喜び、福音にふさわしい生き方となっているかを、根本から問うています。イスラエルは、主の正義を生き、主への心からの献身と、社会生活における貧しき者への配慮が欠けていました。この問題をなおざりにして、捧げる、形式的な礼拝、敬虔さの証明としての神を欺く礼拝に対して、「それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」(14節)と、主は言われます。

パウロは礼拝的人生のあり方、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と述べています。

主の重荷となるような、偽りの礼拝でなく、本当に心からの献身としての礼拝、生き方がわたしたち一人一人に求められているのです。

旧約聖書講解