ホセア書講解

5.ホセア書2章8-9,16-19節『神の愛の支配による宗教性の回復』

ホセアは4-15節において、イスラエルが主に対して犯している背信の罪が何であるかを明らかにした。それは、主の目から見れば、バアルの情婦となり、その「愛人の後について行き わたしを忘れ去った」(15節)というほかない。「わたしを忘れ去った」という悲痛な叫びは、それでも妻を愛する夫の悲しみ叫びであった。

そして、妻であるイスラエルが夫を忘れることがあっても、夫ヤーウェはその妻を忘れない。背信の妻への愛は、変わることがない。夫であるヤーウェの愛は、姦淫の妻であるイスラエルの民をすっかり見捨てたわけではない。その愛は深く高いゆえに、厳しくならざるをえない。

8、9節は元来15節に続き、16節との間に置かれていたと思われる。8節は、背信のイスラエルに対する威嚇の言葉である。主がイスラエルに宣告する処置は、審きであると同時に救いでもある。

「わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ 石垣で遮り」という8節の言葉は、猛り狂う獣を、茨の柵と石垣の壁に閉じ込め、それを破って出て行けないようにすることを示している。ヤーウェはイスラエルをそのように監禁し、イスラエルが盲目的衝動によって、通いなれたバアルへの愛の小径を行かないようにしている。どのような方法でなされたかは、明らかにされていない。しかし、そこに神の教育的な意図があったことは確実である。3章4節は、ヤーウェがこの民を、この地の文化と宗教儀式への関わりを通して堕落することから遠ざけていることを明らかにしている。

9節は姦通の妻の比喩で、バアル宗教とイスラエルの内面的な関わり影響の強さを語ると共に、そこからの立ち返りがどのようにしてなされていくかを明らかにしている。イスラエルが、主によって愛人バアルから遮られたとしても、その愛人への憧れは消えることがない。しかし、「彼女は愛人の後を追っても追いつけず 尋ね求めても見いだせない」といわれている。その情人への憧れは消えることがなくても、それを見出すことができないよう、道は完全に閉ざされている。ここでもその道が閉ざされる方法は、何か示されないまま隠されている。14節との関連でこれを読むなら、この土地と文化の荒廃のことを考えることができるが、16節との関連で読むなら、イスラエルが荒野に導かれたことを考えることができる。いずれにせよ、神の意図は、イスラエルの罪を自覚させ、バアル祭祀の可能性を、イスラエルから完全に取り去ることであった。

「尋ね求める」行為は、聖所への巡礼を示す祭祀的な意義を持ち、それを求めても無駄な結果に終わり、イスラエルは自分の無力さを自覚させられる。その自覚によってイスラエルは、いままでバアルに夢中になって忘れていたヤーウェを、再び思い起こした。

イスラエルは、「初めの夫のもとに帰ろう」(9節)といって、かつてのヤーウェとの契約の時、荒野時代を「あのときは、今よりも幸せだった」と理解するに至る。それはまだ自己中心的な省察でしかない。そこから絶望の苦悩が生まれた。それは、ルカ福音書15章に記される放蕩息子の譬えが示している悔い改めの第一歩でしかない。しかし、それなくしてヤーウェとの新しい関係は不可能であり、再び築かれることはない。「初めの夫のもとに帰ろう」という悔い改めが、荒野において民と(結婚の)契約を結んだヤーウェのもとへ、立ち返る決心へと結びつく。しかし、ヤーウェとの新しい関係は、イスラエルの悔い改めによって開かれたのでない。イスラエルを悔い改めへと導かれたヤーウェの愛、その教育の最初の実であることを忘れてはならない。審きつつイスラエルを愛し続けるヤーウェの愛が、イスラエルの悔い改めを導いたのである。イスラエルの神、主なるヤーウェは、民に、それまでその生活を支えていたものを取り去るという審きを通して、自分たちの無力を自覚させ、主を信頼し立ち帰るしかないことを示されたのである。そうすることによって、イスラエルの心に、新しい愛の種を播くことができる地盤を備えられたのである。なぜなら、ヤーウェとの交わりに生きる、新たな愛の共同体の種は、その地盤がヤーウェ以外の一切の作物から清められた時にしか、真実な姿で芽生えることができないからである。

神の計画による新たな始まりの準備という意味で、8-9節は、16節から始まる神の救いの告げる導入の言葉となっている。

16-17節は、救いの預言である。

「それゆえ」という言葉で審きと救いの神の行為の適確さが示されている。イスラエルは審きを恐れて神の下に立ち帰ることを決心するが、いまや神はその愛をあらわに示される。16節は、「わたしは」とわざわざ人称代名詞を用いて、神の愛を強調している。まるで求愛する者が乙女を誘惑しようとしてやさしく語りかけるように、ヤーウェは民に従って荒野に行き、そこで神の愛を得るようにと語りかける。

ホセアは、神の愛の強烈な印象を、恋人同士の息遣いを用いて語る。その乙女を愛しぬいた男性は、乙女の二心の過去を赦し、心にしみるように愛の思いを「その心に語りかける」。その愛は、愛する者のために創造的に働く。

救いは神の愛の表われとして、神の新たな創造と共に始まる。

荒野で、「わたしはぶどう園を与え」(17節)る、と主はいわれる。左近淑先生は「神の民の信仰(旧約篇)」(教分館)の中で次のような趣旨のことを記している。ユダの荒れ野というのは不毛の大地のように思われているけれども、決してそうでない。「荒れ野というのは一晩雨が降ればもう青草が生えます。」ヘブロンなどは、今はぶどうの産地となっているが、昔は地ぶどうで、石のところにぶどうを這わせていた。石は夏の日光で温まるが、600メートルの高さがあるから、明け方朝露が下りる。その露を受けて、昼間急に暑くなるからぶどうが甘くなる。そういうのを地ぶどうと言い、今の棚にして育てるぶどうとは違う、といったことを記している。荒れ野にあるぶどう畑は、わずかな朝露によって甘いぶどうの実をならせる。「ぶどう園」の譬えによって、神の御言葉の力と愛の働きが、人の目には最初はわずかのように見えても、乾いた人の心にしみるように語りかけられ、その救いは新たな創造として働く卓越したものであることが示されている。神は、人間の思いでは全く不可能と思われるところで救いを実現される方であることが、ここで示されている。思いもよらぬ創造の奇跡とは、神にのみ帰せられ、感覚的で人間的に量れるバアル宗教に対する卓越性がこれによって示されている。

「アコルの谷」は、エリコ地方にある谷間の一つで、ここから約束の地の中心部の高原地帯に上ることができる。したがってこの谷は、天然の門のような役割を果たしていた。イスラエルがカナンの地に初めて入る時、この谷でヨシュアによってアカンが死刑に処せられたので、この谷の名はアカンにちなんで「アコル」(「苦痛」の意)とつけられた(ヨシュア7:24-26)。しかし、17節でアコルは、イスラエルの新たなカナン入国に関連して、「希望の門」という意味で用いられている。この言葉は、神がその民の挫折を、救いの道へと導いていかれる、という奇跡について例示的に語られている。

神の奇跡の力の偉大さは、イスラエルに影響を与えずにはおかなかった。イスラエルは、神の恵みに満ちた導きの下にエジプトを脱出したあのモーセの時代、その若き日の頃のように、神の救いの歴史の新たな開始に反応する。ホセアはアモス同様、イスラエルの荒野時代にその理想の姿を想定する。その時代を、神自らがイスラエルを救い、先頭に立って民を導き、契約を結び、神と民の愛と忠誠の直接的で相互的な交わりの関係を打ち立てられた時、として見ている。人間が希望を失って途方に暮れているその瞬間に、神はその救いを創り出すべく働いておられる、という恵みをイスラエルは荒れ野において経験した。

「そこで、彼女はわたしにこたえる。 おとめであったとき エジプトの地から上ってきた日のように。」(17節)

これは、現実にイスラエルが再び荒野に帰ってしまうことを意味しているのでない。荒野時代に培った神と民との関係の回復、信仰の回復が語られているのである。

神の救いの創造に対して民がどのように反応したかが、18-19節で語られている。「その日が来れば」という言葉は、終末論的な預言の常套句である。イスラエルはいまや、神の愛に圧倒されて、自らもその愛に応えて、ヤーウェを「わが夫」と呼ぶ。もはや今までのようにバアルを「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

ここでイスラエルがヤーウェを「わが夫」と呼ぶようになったのは、ヤーウェのもとにいる方が、バアルのもとにいるより利益が多い、という利己的な関心からでは、もはやない。ヤーウェがイスラエルにその愛を示されたことで、イスラエルの内に呼び覚まされたヤーウェへの愛、信仰の誠実さに基づく真実の告白である。この真実の告白を勝ち取るために、神は、バアルの名とイスラエルが、それと結びついている思い出とを、民の中から消すようにされたのである。その名が消され、口からその名が呼ばれなくなるということは、物質的な豊穣性のバアル宗教と、バアル宗教が持つ感覚的な世界全体も消滅した、ということを意味する。

まことの神ヤーウェのリアリティー(現実性)が真剣に受け止められ考えられているところでは、神の創造の世界と並ぶ別の世界は存在し得ない。神の支配の特色は、それに変わる支配よりも偉大なものを提供することによって、その支配を行われるところに現れる。すべての支配を凌駕するのは、神の愛の支配である。神の愛が現れるところでは、それに対立する一切のものは退いてしまう。イスラエルを悔い改めさせ、救うのはこの神の愛である。

旧約聖書講解