エレミヤ書講解

11.エレミヤ書6章16-21節『魂に安らぎを得よ』

16-21節は、「民の罪」の問題が語られています。エレミヤがここで問題にしていることは何か、その時代の状況に立ち返って考える必要があります。

エレミヤは、ヨシヤ王によって始められた宗教改革の目指す方向を基本的には支持していました。ヨシヤ王は治世の第18年(前622年)に、神殿の修理を命じ、その工事が行われていた時に、エルサレム神殿から「律法の書」が発見されました。「律法の書」の発見は、ヨシヤ王の宗教改革を画期的なものにしました。それは地方聖所の廃止とエルサレムへの聖所の統一という計画を中心としていました。

あなたは久しい昔に軛を折り
手綱を振り切って
「わたしは仕えることはしない」と言った。
あなたは高い丘の上
緑の木の下と見ればどこにでも
身を横たえて遊女となる。(エレミヤ書2:20)

エレミヤはこのように述べて、イスラエルの民は神の戒めに従い、各人の責任を果たすべきなのに、既に長い間そのような態度を捨てて、感覚的なカナン宗教に影響されて堕落していると批判しています。この具体的な堕落の場所は何よりも地方の聖所でした。エレミヤのこの見方からすれば、地方聖所を廃止し、エルサレムへ聖所を統一するというヨシヤ王の改革は支持すべきものでありました。しかし、エレミヤにとって本質的なことは、どれほど画期的なことにせよ、外的なプログラムではなく、神の律法の根本的な意図を民が正面から真剣に受けとめることでした。エレミヤはこの点で、ヨシヤ王の制度的な宗教改革が、現実に民を律法の根源的な意図を解した悔い改めを生むにまでに至らなかった、ということにおいて不徹底のまま挫折したと見ていたようです。

それゆえ、もし16-21節が、ヨシヤ王の改革の直後に書かれたものであるとすれば、エレミヤの律法観が、改革の指導者たちのそれよりもはるかに徹底したものであることを示すものとして注目する必要があります。

預言者エレミヤの思いは、絶えず繰り返し、民の罪の問題をめぐっています。安易な救い、平安を約束する預言者たちの表面的で浅い洞察と異なり、エレミヤは民の罪の吟味と自己検証を課題として深刻に受けとめているからです。エレミヤは安易な救い・平安を語ることはありませんでしたが、エレミヤもまた民を救いに導こうと努めていました。平安を語ることが救いではありません。厳しい警告のことばの中にも、神の真実が語られているなら、その言葉に聞く者となるとき、その言葉は真の救いへと聞く者を導いてくれます。救いは神のことばそのものの中にあるからです。ことばの響き、心地好さで安易に判断しないことが大切です。エレミヤは真理を真剣に探究しようとする人間に対して、あるいはそのような人間になるよう促すように、次のように呼びかけています。

「さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いに至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」(6章16節)

どの宗教も人の幸福、平安に至る道を解いています。そして、人間は、いつも幸福を求めて生きている存在であるということができます。しかし、それをどの道から歩めばよいか、人はいつも迷って生きています。頭ごなしに決めつけて、こう歩めといわれても、人はなかなか納得ができません。エレミヤ自身、引っ込み思案な性格の持ち主でありましたので、人がそう簡単に納得しないことを十分承知していました。だから彼は、「さまざまな道に立って、眺めよ。」といいます。この場合の様々な道とは、イスラエルの人々にとって、彼らに伝えられてきた歴史と伝承されてきたものです。神はその中でご自身の愛を明らかにし、民の歩むべき道を明らかにされているからです。しかし、それは実に複雑で色んな要素が含まれています。それらを現在の生きる指針として、その中のどれを選ぶかは一見して難しいことのように思えます。それでも預言者は立ち止まって正しい道を見出すように人々を促すのであります。神は、契約においてイスラエルに歩むべき道を示しておられます。神との正しい関係の中で築くべき生活、生き方の基本がそこに示されています。エレミヤがここで「眺めよ」といっているのは、個々の律法の規定ではありません。それらを通して示されている、神との正しい心のあり方です。神を本当に礼拝し、崇めつつ、神の前に生きる人間としてなすべき道が何であるかを探求することです。

しかし、歴史は変化します。問題の本質は変わらなくても、時代の状況は変化します。その中で、歴史と伝承を「眺める」ということは、今という時との対話の中でしかなしえません。だからエレミヤは、「昔からの道に問いかけてみよ」と今の状況の中で、歴史と伝承を鏡に、自己を映し、これでよいか問いつつ生きることを人々に求めるのであります。そうすることによって、エレミヤは、「幸いに至る道」を見出し、「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」と語るのであります。それは、エレミヤ自身が試行錯誤しながら、神から与えられた「魂に安らぎ」を得る道であったからです。

しかし、これまで繰り返しイスラエルが主の前に示した態度は、「そこを歩むことをしない」というものでした。エレミヤの問いかけに対しても、人々は同じ拒絶の態度を示しました。後に、主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)と語られ、新しい契約における主に従う道とは、「主イエスの軛を負い、主に学ぶ」ことであることを明らかにされています。「魂に安らぎを得る」道とは、主の契約の意志に従い、そこから与えられる重荷を負い、それを自己の歴史の中で与えられた使命として生きぬく道です。それは労苦が多いかもしれないが、真の平安につながる道であることをエレミヤは示すのであります。「そこを歩むことをしない」というところに人間の罪の本質があります。それは公言する場合にだけでなく、そうしなくても生き方において拒絶している場合にも言えることです。

預言者の役割は、契約の伝承に従って民が神と人との関係を正しく生きているか、「見張る」ことにありました。この場合、預言者は契約伝承の担い手としてその役目を果たしています。預言者は、その伝承を保持する者として、民が契約の定めを破った場合には、この伝承に基づいて神の審判を告知しなければならなかったのです。ですから、エレミヤは、6章9節以下で彼の個人的経験として書き留めたことを、ここでは、すべての真のヤハウェの預言者としての宿命として確認しています。真の預言者のことばは民の間では意図的な不従順による拒否に遭遇するものだと、エレミヤは語るのであります。

だから、預言者に残された道は、この「会衆」にあらためて神の審判を告げる以外にはないということになります。エレミヤは18、19節において、この会衆に「国々よ」「地よ」と呼びかけ、神の審判を告げています。そして、その審判が行われる理由は、「彼らのたくらみが結んだ実である」と明瞭に語っています。即ち、それは、「彼らがわたしの言葉に耳を傾けず、わたしの教えを拒んだからだ」と民が蔑(さげす)んだ律法に言及しております。エレミヤは、ここで、罪の、心の実ということを問題にしています。エレミヤは決して律法を、外面的、形式的な面から把握しません。心において、神の言葉を神の言葉として聞いたか、その神の言葉を聞いたものとして、どのように実を結ばせようと注意を払って生きたか、そのことを問い、その心において拒んだゆえに、主は審きを行なわれると告げています。

20節には、エレミヤの祭儀批判が簡潔に述べられています。南アラビアのシェバから持ってきた「乳香」や、遠い国から取り寄せた高価な「香水萱」などの品々は、神のために費やすものの中でも、通常の全焼の犠牲などと並んで、特別にヤハウェに覚えられる、めでたいもののはずでありました。ところが、「わたしにとって何の意味があるか」という神の問いかけは、神はこのような仕方で人をご自分に近づかせることは決してないということを明らかに示しています。同時に、贈り物を持って神の心を動かそうとするどんな試みをもきっぱりと拒絶されるということが明らかにされています。エレミヤは異質な二種類の信仰をここで対立するものとして対峙させています。ヤハウエ宗教は、祭儀そのものを否定するものでも、そこに捧げられるものを無意味なものとして退けることもありません。しかし、ヤハウェ宗教のもつ神中心的な信仰と供犠中心の宗教に見られる人間中心的な信仰とは、その本質において相いれないものです。旧約聖書の契約祭儀のこのような視点から生まれた神礼拝の理解は、会衆は神に奉仕するという意味での礼拝観です。ところが供犠中心の祭儀は逆に神を人間に奉仕させようとするものです。それは神の意思を取り違え、滅びへと導く「つまずき」となる、との問いが21節に置かれています。この点に関し、次のイザヤの言葉を想起する必要があります。

主は聖所にとっては、つまずきの石
イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
エルサレムの住民にとっては
仕掛け網となり、罠となられる。
多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ
罠にかかって捕らえられる。(イザヤ書8章14-15,28:16も参照)

主の聖所で捧げる礼拝は、主への信頼を持って近づき、心を打ち砕いて主に仕えようとする者には、救いとなり、その礼拝は主に喜ばれるものとなるが、主に信頼を置かないで、祭儀的な礼拝を持ってことたれりとするものにとっては、それは躓きの石となって、自らの滅びを招くものとなる、という両面が語られています。これは厳しい言葉かもしれませんが、この厳しい審きの言葉の裏には、安易な平安を語る言葉に耳を傾けるのでなく(6章14節)、御言葉に明らかにされている主の救いとその歴史をいつも静かに省察し主の御心を探求することによって、幸いに至る道を発見し、その道を歩み、「魂に安らぎを得よ」との深い愛に基づく神の招きがあります。この点を見逃さないことが大切です。

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