イザヤ書講解

59.イザヤ書55:1-5『豊かさを楽しむ』

人は「豊かさ」「生の充実」を味わうために、いろんな工夫をしています。豊かさを本当に実感して生きている人はほとんどいません。そのような豊かさを実感できないで生きている人に向かって、今日の聖書の言葉は神から与えられる本当の豊かな生を楽しむ道について語られています。

この言葉は、わたしたちの生き方の転換を求めて語られています。その転換とは「外面的」な豊かさから、「内面的」な「心」の豊かさへの転換ではありません。聖書が教えているのは、心の健康だけでなく、全人にかかわる救いの問題です。ヘブライ人は体の五官を用いて人間の外面・内面の両方のあり方を考えます。ヘブライ語では、体の器官を現す一つの言葉が多様な意味を持ち、多様な生き方を表すために用いられます。

ここで「魂」と訳されている言葉は、ヘブライ語ではネフェシュです。この語は日本語に訳される時、大体において「魂」と訳されるますが、ヘブル語のネフェシュという語は非常に豊かな意味合いを持っています。

ネフェシュは元々は、「喉」を意味する言葉です。そしてネフェシュは、「喉」を表すと同時に、飢え渇いた人間存在、あるいは所有欲に燃えた人間存在を表す語としても用いられます。また、身体的な食欲や渇きを癒すだけでなく、物質的な所有欲を満たす欲望、切望、心を表す意味にも用いられます。そして更には、人間の重大で根本的な命の欲求にも用いられ、「命」とか「魂」を意味する言葉として用いられます。言い換えれば、その欲求が充足されないなら、その人が自分自身になりきれない、そういう欲求がネフェシュという言葉で表わされます。ネフェシュとしての人間は、それがどんな渇きであれ、渇きが充足されるまでその欲求を止めないのです。問題はネフェシュとしての人間が、その欲求を何に求め、欲求の根が何と結びついているかによって、人間の豊かさも違ったものになります。

この文脈の中ではネフェシュを「魂」に限るのは適切ではありません。「体」と「魂」両方を含む人間存在全体が豊かさを楽しむことができる。そういう生の充足を味わえるというのが、この言葉が本当に表そうとしていることです。

それゆえ、「あなたたちの魂(ネフェシュ)はその豊かさを楽しむであろう」という言葉は、魂の内面だけの豊かさに与るようにという招きではありません。「体」と「魂」の両面で豊かさを楽しむ、即ち、人間の五感すべてで感じる豊かさ、人間性全体で味わう豊かさ、全生活、全生涯、その生と死を越えてなお与えられる永遠に存続する豊かさに与るようにと招いているのです。

この招きの言葉は、物質的にも精神的にも飢えと乾きの中で生き、混乱した現実の中で将来について途方にくれている人々に与えらました。この招きを受けている人たちは、神から選ばれた民であることを自認していた人たちです。しかし、神の声に聞き従わなかったため、国を失い、捕囚とされた人たちの子孫でした。彼らは、預言者から、再び解放されて祖国に帰れる時がきたと告げられ、祖国へ帰るよう呼びかけを受けましたが、人々はいろんな声に惑わされていました。帰らずにこの異国の地に残った方が豊かな生活を保つことができるというものもあり、預言者の語る神の言葉を素直に聞けず躊躇っている人たちが多くいました。

しかし、この招きの言葉には矛盾があります。翻訳ではできるだけその矛盾を解消しようとしていますが、その翻訳者の努力は成功していません。

1節3行目の「穀物を求めて、食べよ」は、ヘブライ語本文を忠実に訳すなら、「穀物を買い求めて、食べよ」です。「求めて」には、「買う」という意味が加わっている語が用いられています。それなら、2行目の「銀を持たない者も来るがよい」という言葉と矛盾が生じますので、その矛盾を和らげるために、「買う」という意味を取り除いて訳してしまっています。

この時代は、人々は買い物をするのに「棒銀」を持って行いました。2節において言われていますように、手持ちの「棒銀」切って、買った品物の代価として「銀を量って払う」のが習わしでありました。

しかし、ここでは、「銀を持たない者」に、「来なさい」といって呼びかけがなされています。品物を買うお金を持たない人に向かって、「来て」、水、穀物、ぶどう酒、乳を「買い求めなさい」という呼びかけは矛盾しています。本当に文無しの者が、これらの品をお金を払わず「これください」と求めますと、首根っこをつかんで叩き出されるだけです。

これらの人々に呼びかけている店員は、当時の人々が聞きしたがった、政治的な指導者、この世の様々な声を表しています。人は皆これらの声に翻弄され、飢えと渇きを満たそうとやって来ては、搾取の対象とされ今まで以上に飢え渇く日々を過ごし、失望を味合せられ続けていました。ここに求めよといわれている品物は、人間が生きて行く飢えで欠くことのできないものばかりです。しかし、人々に求めよと呼びかける人間は決して彼ら飢えと渇きを根本から癒すことのできなかった人たちです。彼らからお金を受け取りましたが、飢えを満たすことはできない人々でした。この招きに続く2節の「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」という言葉は実に辛辣な批判の言葉です。そういうあてにならぬ人の言葉に聞きしたがって、飢え渇きを満たそうとして満たされない空しい労苦に人生の大半を費やしている人に向かってこの呼びかけはなされているのです。どんなに高尚な趣味を持ち、教養も豊かに手に入れて、豊かに生活をしている人であっても、人間の「欲望」は満たされることはありません。ネフェシュが満足するということはありません。

このような空しい欲望に生きる者に対して批判者として立っているのは神です。そして、神は、「わたしに聞き従えば、よいものを食べることができる。あなたたちのネフェシュはその豊かさを楽しむことができる」言われます。

人が人の飢え渇きを癒すことはできません。人間のネフェシュを満足させるのは、人の呼び掛けではありません。その言葉に聞き従う者は、飢えと渇きから決して癒されることはありません。どれだけ代価を多く払い、そのための努力を多く払っても、満たされ満足できる人生を生きることはできません。

しかし神は、「わたしに聞き従えば、よいものを食べることができる。あなたたちのネフェシュはその豊かさを楽しむことができる」と、お金を持たない人に向けて語られています。そして、買い求めるという行為は、神の声に「聞き従う」行為として語られています。神は価なき者にただで良いもので飽かせ、ネフェシュがその豊かさを楽しむことができるよう配慮してくださるというのです。

この神の招きは一見矛盾しているように見えますが、実は、決して満たされることのない偽りの言葉を聞いて飢えと渇きに翻弄されている人間に、真実の神の言葉に聞き、決して飢え渇くことのない人生を生きよ、しかもその恵みをただで受けよと神は無限の愛を持って招いておられるのです。神はネフェシュとしての人間を完全に満たすことのできる方です。人生の歩み、豊かさの問題をこの神に聞くことから建て直していく転換を求める招きがここになされています。

この招きをされる神は、神のもとにくれば、貧しくても心だけは豊かになると言われるのでありません。どうせ失われる富や豊かさならそんなものを断念しなさい、いくら食べても満たされることがないなら食べることに対する満足を断念しなさい、世捨て人になってわたしのところに来なさい、という招きがなされているのではありません。むしろ神は、わたしのもとに来てわたしの御声に聞き従えば、「良いものを食べることができ」、しかも「ネフェシュはその豊かさを楽しむ」ことができるといわれます。神は、飢え渇くわたしたち一人一人に、全存在を持って豊かな人生を生きよ、と招いておられるのです。

本当の豊かさを楽しむ道は、神の声を聞き、この声に聞き従い、神の下で歩むことによってのみ与えられます。

3節には更に素晴らしい招きが与えられています。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、ネフェシュに命を得よ」といわれています。

神に触れたネフェシュだけが充足を知ることができます。神に出会い、神の慈しみを知らなければ、人は自己を満たすことはできません。

詩編の42編にこういう一節があります。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂(ネフェシュ)はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂(ネフェシュ)は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。

この言葉は、ネフェシュとしての人間の真の満足について語っています。人間は、神の御前にまかり出て、人に命をもたらすことのできる神の言葉を聞き、神を礼拝しと交わる者となるまでネフェシュの渇きは癒されないと語っています。人間は、「神のかたち」に造られた存在です。神はわたしたちと交わるためにへりくだり、その飢え渇きを満たそうといわれるのです。この神との交わりに生きて人間が人間として深い欲求を満たすことができるよう神は配慮してくださるのです。

11節は素晴らしい約束を語っています。神の言葉は、ネフェシュとしての人間の深い欲望、命を満たすという神自らがわたしたち人間に対して持っておられる使命、愛の負債を実現するため、その使命を必ず果たすと約束しています。

新約聖書はこの渇きを癒すために、救い主である神が人となってこられたことを告げています。それは、イエス・キリストです。ヨハネによる福音書4章にこのお方の言葉が記されています。井戸に水を汲みに来ていた生活破綻者となっていた一人のサマリヤの女に、イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」といわれました。

主イエスの言葉は、渇くことのない命をもたらします。

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