イザヤ書講解

28.イザヤ書39章1-8節 『ヒゼキヤの躓き』

イザヤ書39章は、バビロン王メロダク・バルアダンの使者のエルサレム訪問がヒゼキヤ王の病気回復後のこととしていますが、実際の年代は、おそらくヒゼキヤの病気治療以前だと思われます。

メロダク・バルアダンはメソポタミアの小国ベト・ヤキンを支配するカルデア人です。アッシリアでは、前721年にシャルマネセル五世が急死し、サルゴンが即位しましたが、混乱状態が続きました。メロダク・バルアダンは、アッシリア情勢に乗じて、バビロンに上り、前710年にバビロンを追われるまでバビロンを支配しました。サルゴンの手から逃れたメロダク・バルアダンは、なおもバビロンに復帰する機会をうかがっていました。前705年にサルゴンが死んでセンナケリブが即位すると、メロダク・バルアダンはその翌年には、西方諸国に対して反アッシリア同盟の結成を呼び掛けています。前702年に彼は再びバビロンに支配者として帰還しましたが、1年足らずで前701年にはセンナケリブによって滅ぼされています。

ヒゼキヤの病気の時期は、ヒゼキヤの14年即ち前701年にアッシリアのセンナケリブがエルサレム包囲する直前のことですから、ヒゼキヤの病気が癒されたのは、前702年か1年ということになります。ヒゼキヤはその後15年間延命されて前687年に死んでいますが、おそらくメロダク・バルアダンがこの間に使節を送るだけの余裕はなかったと思われます。

39章は、明らかに後世の編集者の手にかかってできていると思われますが、編集者はメロダク・バルアダンの使節派遣とヒゼキヤ王の病気治癒の年代が近接していたことを知っていたかもしれません。

いずれにせよ、このテキストは、ヒゼキヤとメロダク・バルアダンの間で反アッシリア同盟が締結されていたことを示唆しており、それに対するイザヤの態度を明らかにしているように思われます。

ヒゼキヤが王の宝物倉をメロダク・バルアダンの使者に見せたのは、明らかにメロダク・バルアダンとの間で反アッシリア同盟が締結されていたからであると思われます。イザヤは、この軍事同盟がやがてユダがバビロンに滅ぼされる遠因となると言うのでありますが、5節~7節の言葉は、多くの注解者によって、おそらくエルサレム崩壊を経験したあとの解釈によるものであり、直接イザヤに帰すことはできないであろうといわれていますが、確実なことは判りません。

しかし、このイザヤの使信の持つ意味は明瞭です。イザヤの活躍した時代、一時的に衰退期にあったアッシリアが勢力を回復し、西方進出を企て、パレスチナ周辺諸国はその対応に追われていました。特に、前734年南西パレスチナに侵攻したティグラト・ピレセル三世の脅威は、パレスチナ周辺諸国に反アッシリア同盟を結成させることになりました。シリアと北イスラエル王国は南のユダ王国にもこの同盟に加わるよう要請しましたが、アハズ王はこれを拒否し、むしろアッシリアとの関係を強めました。このような情勢の中でイザヤが告知した預言は、神がわれらと共にいますゆえに、神に信頼を置くならば、ユダに危機は臨まないという救済の預言でした(7章)。しかし、アハズは、このイザヤの忠告に従って神にしるしを求めず、アッシリアを頼みとして危機を乗り越えようとする、不信仰を明らかにしました。アハズの不信仰を知ったイザヤは、今度は神が共にいますゆえに、審きを免れえないと審判預言を語りました。

アハズ王の取った親アッシリア政策の付けは、アッシリアの偶像の祭壇と崇拝がエルサレムに持ち込まれるというまことに悲劇的な結果をもたらしました。預言者イザヤにとって、アッシリアへの依存はヤハウェの王権に対する不信仰であり、エルサレムへの異教の祭壇導入は、ヤハウェの聖なる都への凌辱にほかなりませんでした。アハズに対する失望が大きかっただけに、ヒゼキヤに対するイザヤの期待は強いものがあったと思われます。

前714年頃に起こったクシュ人によるエジプト王朝を中心にした反アッシリア運動の際に、イザヤは、3年のあいだ裸・裸足で歩くという行動によって、これに反対したため(20章)、ヒゼキヤはこの同盟に加わることはありませんでしたが、アッシリアのサルゴンによって追放されていたメロダク・バルアダンは、前702年にサルゴンが死ぬと、バビロンで再び即位し、ヒゼキヤに反アッシリア同盟を結ぶよう呼び掛け、このとき、ヒゼキヤはイザヤの反対を押し切って反アッシリア同盟を結んだようです。

イザヤは、アハズ・ヒゼキヤの時代を通じ、アッシリアに対し、終始中立策を取るよう警告し続けました。それは、同盟策が歴史を支配し導かれる主への背信の罪になるからであります。イスラエルの聖者である神は、「万軍の主」として、イスラエルに先立ち敵と戦われるお方であります。それは、出エジプトの出来事において既に明らかにされました。イスラエルは、イスラエルの聖者であられる神にのみ信頼し続けねばならない、というのがイザヤの第一の使信でありました。

さらに、エルサレムはイスラエルの聖者であられる主が住まわれる聖なる都でありました。それ故、そこに住む民も聖でなければならないとされました。「イスラエルの聖者」(クドーシュ・イスラエル)はイザヤに特徴的な神の呼称でしたが、それは6章に記されるイザヤの召命体験に基づいていることは言うまでもありません。この「聖」(コーデシュ)とは、「区別する」という意味があります。世俗の人間とは区別された存在が神であられます。同時に、聖なる神によって聖別された都エルサレムは「聖」であり、そこに住む民もまた「聖」なるものであるということは、異邦人及び異教とは隔絶されたものであるということを意味していました。

ヒゼキヤがメロダク・バルアダンから使節を送られたことが、彼にとっていかに名誉なことであったとしても、異邦人にエルサレムの財に至るまで見せることは、「イスラエルの聖者」の「神聖さ」を侵すことにほかならないと、イザヤの目には映りました。

ヒゼキヤがバビロンの使者にエルサレムを隅なく見せたことは、万軍の主、主の戦いの手を明らかにしてしまったことになります。それは、かつてダビデが犯した罪と同じことを意味していました。ダビデが剣を抜く勇士の数を数えたことは、主の軍勢を知ろうとした罪であり、それは神の秘儀を人間の力によって明らかにしようとした神聖冒涜の罪に該当しました。ダビデが軍勢を数えただけで、その罪を問われたとするなら、戦いの手のうちをすべて異教徒に見せてしまったヒゼキヤ王は、さらに厳しい審きを覚悟しなければならないことになります。

イザヤがヒゼキヤに告げた万軍の主の言葉は、ヒゼキヤの家にある宝物のすべてがバビロンに運び去られ、その息子たちも連れ去られ、バビロンの王宮で宦官とされるという、まことに厳しいものであります。このバビロン捕囚に関する預言が直接イザヤに帰されるかどうかについて議論があるにしても、ヒゼキヤの示した神聖冒涜の不信仰の罪がもたらす悲劇的結末は、まさにイスラエルが神の前に示し続けた不信仰の結末の姿そのものを表しています。

イスラエルは主に選ばれた民として、主の聖性、自らの聖性、主の都の聖性を軽んじ犯すとき、主はその聖性の故に怒り、彼らをその裁きの対象とされるということを、彼らにこの出来事を通して教訓として示そうとされたということが理解できます。何故、イスラエルは主の選びの民であったのに、バビロン捕囚という悲惨を経験しなければならなかったのか、その原因が自らの不信仰にあったことを、この事件を通して学ぶことこそ重要だと編集者は判断していることだけは確かであります。

ヒゼキヤは、イザヤの告げる審きの使信を受け、喜びました。自分が生きている間は、イザヤの預言が実現しないことを知ったからです。ここに善王と呼ばれたヒゼキヤの罪と限界がありました。ヒゼキヤもまた自分のことしか考えることのできなかった王でしかありませんでした。自分さえよければという王の独りよがりな思いと考えによって、民は苦しみ、隣人は苦しみ、国全体の崩壊に繋がっていきました。

イスラエルの王も民も、主の民として主の前に果たすべき責任があります。そして、その責任はまた民の前にも問われます。王の無責任さは、民に負債となって帰ってきます。神の国とその義を第一に求めること(マタイ6:33、ルカ12:31、申命記4:29)、神を愛することと、隣人を愛することは切り離すことのできない一つのことであることを人は覚えるべきであります。

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