ハバクク書講解

4.ハバクク書2章5-20節『主の栄光で満たされる日』

ここに記されているのは、神の語りかけではなく、預言者の略奪者に向けた叱責と威嚇の言葉です。この場合の略奪者とは、勿論、カルデア人(バビロン)のことが念頭に置かれています。

前半部分の5-6節は、「叱責と威嚇」の言葉で、この単元全体の序文に当たります。ユダが経験した禍は、武力侵略によって領土を支配しようとする傲慢な圧政者の飽くなき欲望の結果としてもたらされました。少なくもとハバククはそうみなしています。これはエレミヤの見方とは異なります。カルデア人は、諸民族をその帝国に次々に併合しました。その結果、諸民族が持っている固有の生命は死の喉に沈み行くことになりました。ハバククは、貪欲の権化のようなカルデア人の素性を「陰府」「死」に例えています。「陰府」は死者の地下の住みかを指し、旧約聖書の中では、シェオルと呼び、新約聖書はハデスと呼んでいます。旧約聖書の「陰府」「死」は、「生」からの断絶ではなく、むしろ連続されたものとして理解されています。人は生きながら「陰府」に下り(民数16:30,33、詩55:16)、弱くされた生者として最後の運命を待つものと考えられています。

このように「すべての民を自分のもとに引き寄せ」、「陰府」と「死」の苦しみを味わわせ、掠奪した者に対して、「嘲りのことわざを歌い」「謎の風刺を浴びせ」徹底してなぶり者にしました。

しかし、彼らがどんなにその略奪行為によって巨万の富を築き、広い領土を支配し高慢に振る舞っても、その目指す安泰の道を得ることはできないことを、預言者は最初に明らかにしています。

そして、第二の言葉(6節後半から8節)において、高慢な略奪者の災いを、預言者は語ります。カルデア人は、自分の手で労苦して得たものではなく、他人が労苦して得た財産を奪い取り、他人を犠牲にして富んだが、その富を自分の重荷として背負わねばならないことになると言われています。
その事態の転換は「突然」やって来ます。7節の「突然」という言葉は、1章2節の「いつまで」という預言者の問いと対応しています。主の答えが必ずあると信じつつ「いつまで」と述べ、その時の来る遅さに待ちきれない苛立ちを感じていた預言者は、今や確信を持ってその時が「突然」訪れることを告げています。それは、思いがけない神の介入の時を示しています。つまり神の働きによってある時不意に加害者と被害者が入れ代わり、諸民族を掠奪した世界強国は自ら掠奪した者から掠奪されることになる。こうして神は、侵略者の物質的欲望を糾弾されるということを、ハバククは明らかにしています。

そして、第3の言葉(9-11節)において、利己主義で貪欲なカルデア人と、その支配下にあって義を求めて苦しむ者の神への叫びが歌われています。

掠奪を繰り返すカルデア人も「災い」を恐れて生きていました。そして、彼らにとって「災い」から逃れることが、欲望の究極の動機となっていました。それは、鳥が敵の攻撃の災いから逃れるために、高い所に巣を作るように、世界強国は、あらゆる「利益」をかき集めて、災いから逃れようとしています。また神の処罰から逃れようとしています。

しかしながら、10節において、このように高慢で利得に抜け目のない者は、自分が計画したことの正反対のものに到達するにすぎないことが告げられています。自分の家の恥に繋がり、多くの民の滅びと、自分を傷つけることしかもたらさないということが明らかにされています。

主の御心に適わない悪しき行為がいつまでも見過ごしにされることは決してあり得ません。それは必ず白日の下にさらされ、神の審きの前に立たねばならないことになります。それを証言するのは、戦場となり傷つけられた石垣であり、その傷痕を残す建物の梁である、と言われています。11節の「まことに石は石垣から叫ぶ」という語は、新約聖書ルカの福音書19章40節の「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」という主イエスの言葉と関連しているといわれる箇所であります。ヘブライ語の「叫ぶ」「答える」という語は、元来、裁判における告訴人と、証人についてあてはまる語であり、破壊された市街の石垣や家並みが、強欲な侵略者に対して叫び、その有罪を主張し、起訴するものとなります。破壊された石垣や家並は、神に向かって叫ぶ叫び声として、既に聞かれている。主イエスは、たとえそのことに対し人が沈黙することがあっても、壊された石が証人として神に向かって叫び声を上げているので、その非道な行為が見過ごしにされることはないといわれるのであります。

それゆえ、第四の言葉(12—14節)において、こうした破壊と流血と掠奪によってその富を増し加え、自分の都を立派に築く世界強国バビロンのネブカドネザル王の不正が徹底して暴かれています。バビロンによって破壊された町の石垣は哀れでみすぼらしいものにされ、バビロンの都はその奪った不正の富で壮麗で立派に築かれています。諸国の民は、このバビロンによって空しい者にされ、疲れ果てさせられています。

しかし、それも主によって終わらせられます。水が海を覆うとその中にあるすべてのものが見えなくなります。それと同じように、主がご自身の栄光を現される時、「大地は主の栄光の知識で満たされる」とハバククは歌います。ハバククは、これらの言葉において、世界支配者のこれら一連の行為は、最終的には、もっぱら神のご計画が遂行される前兆に過ぎないものであることを告げています。人の目で見る「栄光」と「挫折」、それは、覆われ、主の栄光に満たされます。

ハバククは必ず主によってもたらされるこの栄光の日を信じています。「大地は主の栄光の知識で満たされる」日を確信し、ひたすら待ち望みます。

そして、16節において、侵略者バビロンに対して、「お前は栄光より恥を飽きるほど受ける」と告げられています。「恥」とは、元来、「軽い」という意味を持つ語が用いられています。これに対して「栄光」は、元来、「重い」という意味を持っています。これまで他国、他人を蹂躪してきた者は、社会的に軽く見られて侮られ、彼らによって恥を受けてきましたが、最後まで主を信じ信仰によって生きる義人は、主の栄光で満たされ満足させられるということが明らかにされているのであります。

15-20節は、注解者によれば、元来、ハバククの預言にはなかったという解釈をしています。しかし、今日、旧約聖書がハバククの言葉としてこれらの言葉がここに置かれている意味は大きくて重いものがあります。

主なる神は、ハバククに対して、「定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人(義人)は信仰によって生きる。」(2:3-4)と告げられています。ハバククはこの主の言葉を拠所として、その信仰に立って、2章5-20節の「叱責と威嚇」の言葉を述べているのであります。そのクライマックスとして、20節の言葉があります。

今、エルサレムの神殿は、バビロンの手によって破壊されつつある。その様な危機のただなかにあります。「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」とハバククは、主への信仰に立とうとする同時代の者に向かって告げているのであります。

信仰とは、どの様な時も、主がそこにいますことを確信し、主にあって開かれる救いの日を待ち望みつつ、礼拝すべき場所で主を礼拝し、沈黙して、その時が来るのを待つことであります。その日は、主の民に恥辱を与えたものが恥辱を受け、恥辱を受けていたものが、主によって栄光を受ける日であります。主の栄光は重く、迫害するものの恥辱は軽いのです。栄光に満つ主がいつも教会に共におられるのであります。そのことを覚え、御前に沈黙して、全存在を委ねる信仰が主によっていつも期待されているのであります。

旧約聖書講解