エゼキエル書講解

31.エゼキエル書34章1-16節『真の牧者である主なる神による救い』

エゼキエルは、ここで主による新たな救いを明らかにしています。それは、「イスラエルの牧者」として立てられた国の指導者たちが主から託された群達を養わず、ただ自分自身を養うことにのみ生き、国を滅ぼした彼らの偽りの統治に対する主ご自身による介入によってはじめられる救いです。

彼らは群を養うことをしていなかったのです。その現実は、「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らが飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。またわたくしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり探す者もなく、尋ね求める者もいない。」(3-6節)、という者です。エゼキエルは、それを、主なる神の言葉として明らかにしています。

国家の指導者を「牧者」として語るのは、古代オリエント世界全般に見られる考えで、ハンムラビ法典(前18世紀)の前文で、ハンムラビは自分が「人々の牧者」「牧場と水の提供者」であることが明らかにした上で、「無法なもの悪しき者を滅ぼし、弱い者の権利が強いものに奪われぬようにするため」に任命されている、ということを明らかにしています。同じ調子が前710年ごろのメロダクバラダンに至るまで王の碑銘に響いており、これは散った人々を集める牧者の任務を自覚したものであることを明らかにするものです。

しかし、エゼキエルは、イスラエルの牧者のつとめを、以下のエレミヤと同じ牧者についての理解から、そのつとめのあり方を論じています。

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。」(エレミヤ23章1,2節)

民を牧する指導者がそれにふさわしい務めを果たさないと、その被害を受けるのは民です。その結果、民のある者は捕囚とされました。エゼキエルもその一人でありました。また、捕囚を免れても野の餌食にさらされる人々もいました。その難を逃れるために外国に散っていた人々もいます。しかし、「わたしの群れは地の全面に散らされる」(6節)現実から民を救いだそうとする主なる神の救いへの意思と決意がここに示されました。

真実の働きをしない「牧者たちに立ち向かい」「彼らに群れを飼うことをやめさせ」(10節)「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする 」(11節)という、主なる神の歴史への介入、新たな歴史支配によって実現する事がここに明らかにされています。

イスラエルの牧者たちの権力の源泉が神にあるとすれば、彼らのその偽りの支配を止めさせるのもまた神です。神は、この歴史の現実に介入し、真の牧者としてのつとめをされることを明らかにされるのです。歴史の主、世界を真に支配されている王なるお方としての主の救い、慰めと慈しみに満ちた真の牧者としての主の意思がここに明らかにされています。

ここに見られる大牧者としての主の意思は、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(16節)というものです。

それは、「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)主イエスの言葉を彷彿させるような神の言葉です。

悪しき牧者に養われる羊の群れは、自らの力でその悲惨な現実から脱出することはできません。ただ敵の餌食にされ、黙して、なされるがまま身を委ねるほかありません。

しかし、主なるヤハウエは、イスラエルをご自分の民として選ばれたお方です。その民の大牧者として、ご自分の民が滅亡されることを望まれません。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」これが主の意思として鳴り響いています。それは、ヨハネ福音書10章の偉大な羊飼いとして来られた主イエスの姿を予表するものであります。

神の歴史支配、救いの意思は、ご自身の大牧者としての正義と公平によって究極において実現されるものであることを、これらの御言葉は明らかにしています。イスラエルの滅亡、捕囚、民の離散の原因は、「イスラエルの牧者」とされた国の指導者の私腹を肥やす罪にありますが、その結果もたらされた選びの民の悲惨を、神はそのまま見捨てることはなかったのです。歴史における神の介入、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(16節)という意思を示されるこの神こそ、その悲惨な民の現実を変える唯一の揺るぎない力です。わたしたちもまた、大牧者であられる神の支配と導きの中に入れられていることを覚える時、大きな安らぎと平安を覚えることができます。

旧約聖書講解