詩編講解

10.詩篇第12篇『人の言葉と神の言葉』

この詩篇は、神を信じる者たちの共同体から生まれた祈りです。

2-5節の主への哀願の言葉は、世にはびこっている頽廃を嘆く信仰者の嘆きの言葉です。それは、いくつかの有力な集団で、権力を持って大きな顔をしている人々の嘘と大言壮語によって、常に苦しめられている神を信じている者たちの深い嘆きです。彼らの嘘と思い上がりにより、世が頽廃し、その結果、神を信じる真実な人々が国中で没落していくさまを見て、この詩人は嘆いています。

しかし、彼は単に古き良き時代を懐かしみ、腹立ち、悲観しているだけではありません。

彼はこの深い嘆きの祈りの中で、人間の深みまでも見通すことの出来る目を持つものとして、神を信じる者と信じない者との分裂の原因となっている社会の堕落に対して、その根源から事柄を洞察し、確かな判断を下そうとしています。彼が見ている事態は、もはや手の施し様もない深刻な事態です。

主よ、お救いください。
主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。(2,3節)

このような事態は、事柄を悲観し、絶望するほかない深刻な事態です。

そこに存在する人間だけを見、事柄を人間的な地平でだけ眺めるなら、そこには何の改善も期待も出来ない状況がありました。人間同士のあらゆる交わりを破壊する嘘が、ここでは根本的な原因として明確に認識され、洞察されています。

言葉が社会の中で真理を明らかにし、人と人とを繋ぎ、信頼の輪を築くものとして期待されているのに、人と人とを疑わせる隔ての壁となり、真理を覆い隠す衝立(ついたて)になってしまっていました。それは、権力を得て他の者を軽んじる思い上がりに一つの原因がありますが、それ以上に神を畏れず神に対して思い上がっているところに根本的な原因があります。

本来、言葉とは、神のかたちに似せて造られた人間だけに与えられた、神と人との、また、人と人との、信頼に基づく人格的交わりのための表現の手段であります。その言葉を自惚れによって私物化し、自分の権力のことしか考えなくなるとき、それは自己願望と権力拡張のためだけの危険な道具となってしまい、自己破壊と社会全体を破壊する武器と化してしまいます。

そういう現実をこの詩人は知っています。どうしてこんな目茶苦茶なことを言って平気で嘘をついている人が栄え、正直者が貶められているのか。その姿を見せられて、本当に腹立たしい思いをしますが、そうした怒りだけでは事柄は少しも解決しないのです。その現実に対して、どういう洞察の目を持つかが、信仰者の共同体に問われているのです。事柄を人間の問題として、人間の側からだけ見ていくと、そこには一つの解決も見出すことは出来ません。

この詩人は、このような言葉の修辞的・詭弁的な遊びを、常に神に対する人間の反抗のしるしとしてみています。

だから詩人は、神の言葉を人間の言葉と鋭い対象をなすものとして、人間の思い上がりを裁き、歯止めをかけるものとして、信仰の目を持って洞察しています。

心に裁く神を持たず、主権を持って支配する神を知らない不信仰者は、不真実のはびこる世や人に迎合しやすいのです。しかし、神を信じる者は、「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清められた銀」の言葉として、聞いているので、最後には主の言葉だけが堅く立ち、人の言葉の不真実が裁かれることを信じています。それ故、希望を失うことがありません。

人間は自ら語ったその言葉を実行せず、権力だけを手に入れることに汲々とするという姿を、詩人は見てきましたが、「主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえに至まで わたしたちを見守ってくださいます」(8節)と主への信頼を失いません。主の言葉の真実を信じるので、人の不真実の最終的な没落を彼は見ています。彼はそれを見つめていますので、人が偽りばかりを語るからといって、自らも偽りの世界に身を委ねることをしません。

それは、預言者たちの示した信仰でもあります。言い換えるなら、虚偽と大言壮語する世の不真実を前に、信仰者である彼は、全くの少数者になってしまったからといって、沈黙してしまわないのです。

人の言葉の真実を回復することが出来るのは、ただ神の言葉の真実だけであり、それを知る信仰者の神への信仰の祈りから生まれる、ということを彼は知っています。

神はご自分の言葉に真実であり、また常にそうであり続けるお方です。祈りを捧げる信仰共同体の確信と希望は、この事実の上にのみ基礎付けられます。ですから、神のことばの真理という土台の上に置かれて、はじめて信仰は確かなものになります。

このように神を見上げ、神のことばの真実に立つ信仰は、新しい目を与えられます。その目は、嘘と思い上がりで塗り固められた見かけ倒しの世界が没落せざるを得ない、ということを見通します。神の言葉の真実と真理に根ざす信仰は、神の永続的な護りの下におかれているという事実をも同時に見通します。

宗教改革者ルターは、この詩篇をもとに宗教改革の讃美歌「神よ、天より見そなわしたまえ」を作詩したといわれています。その動機は、この詩篇が、人間の言葉に対する不安の中から、神の言葉による守りと力のうちに通じている道を明らかにしていることを見出したからである、と言われています。

虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。(6節)

このように言われる主に委ね、神の言葉の上に基礎付けられた信仰の歩みを共にしたく思います。

旧約聖書講解