エレミヤ書講解

27.エレミヤ書17章12-18節『エレミヤの嘆きの祈り』

12-18節は、エレミヤの祈りの言葉が記されています。エレミヤは自らに委ねられた預言者の職務の危機に直面し、いかに神の前にもがき苦しんでいいたかを、心に染みる率直さをもって捧げられているこの嘆きの祈りによって知ることができます。しかし、12、13節については、エレミヤ自身の言葉であるかどうかについて疑義を唱える批評家もいます。そのような批評をする批評家も、神殿が神の住処であるという信仰をエレミヤが拒んだ証拠はないといっています。

この嘆きの祈りの歌は、「栄光の御座、いにしえよりの天、我等の聖所」という言葉で始められます。このような讃歌風の導入の言葉で始められる祈りは、エルサレム神殿における契約祭儀の中で捧げられ、その契約の祝祭の頂点におられる神の顕現と結びついています。ヤハウェは、栄光の中で現れ、神殿の至聖所に安置された契約の箱の上の天にまで聳える玉座に臨在される、これが契約祭儀に置けるイスラエルの信仰の基本的理解です。それゆえ、この祈りは聖所に臨在される神に向けられたものです。契約の祝祭に加わる会衆は、このように始められる祈りの形式のゆえに、神の臨在を確信するよう導かれました。

神の臨在を象徴する言葉で始められこの祈りは、13節では、臨在される神自身へと向けられてゆきます。預言者が自分の魂を注ぎ出して祈りの呼びかけをするのは、「イスラエルの希望である主」です。しかし、この祈りは、このように契約の神ヤハウェへの告白で始められていますが、この後に続くのは、契約の共同体であるイスラエルの背教者への拒絶の言葉です。ヤハウェから離反していった契約の民の一員が「地下に行く者として記される」という思想は、おそらく、神に背く者を契約祭儀から追放する祭儀的慣習から来るものであると思われます。この場合、追放されるべき者の運命を象徴するために、その名前が地面に記され、更に記された名が踏みつけられ、消し去られたと思われます。ヤハウェに対する離反の罪の重さをこのような象徴行為によって浮き彫りにされ、強調されています。

14節の言葉から、エレミヤの本来の嘆願が始まります。エレミヤは彼の敵対者たちとは対照的に、自分でどうすることもできない病人のように、嘆きの言葉をもって、癒しと救いを神に祈り求めています。事実、エレミヤは苦しみ悩める者の状態にありました。よるべなく、エレミヤは敵の嘲笑と迫害にさらされていました。エレミヤは忍耐と寛容なる心をもって赦す力を失ってしまった自分自身の姿を感じとっています。それゆえ、自分自身を襲う内なる危機を正直に告白し、表明することよりほかに、なす術を知らないのです。しかし、エレミヤが自信を失ってしまったまさにその瞬間に、彼は神への信頼の言葉を思い出しました。そして、このことばは、同時にこの祈りの導入の言葉に立ち戻っています。この祈りが神に聞き届けられることへの確かな希望を、「イスラエルの希望の主よ」という呼びかけにおいて、エレミヤは前もって捧げる讃歌の言葉において表明しています。

15節において、エレミヤは「ご覧下さい」といって、自分の内なる苦悩を率直に述べようとします。この率直さの中に、神への信頼が表明されています。エレミヤは敵対者たちの無遠慮な嘲笑に苦しんでいました。彼らはエレミヤが語る主の審きの言葉の真実を疑いました。それは、エレミヤが告げた災いが実現せず遅延していたからです。しかも、エレミヤの告げた言葉が民の不幸が来ることを告げるものであったため、エレミヤ自身がそう願っているという印象を与えました。それゆえ、エレミヤは、民の敵、敗北主義者として民に印象づけられていました。

このような言われなき嫌疑は、民を深く熱愛して、神のことを考え、心配し、民のために絶えず執り成しの祈りを捧げ、神の前に立っていたエレミヤの心をどれほど深く傷つけ、痛ませたことでしょう。16節は、神の前に潔白を証明しようとするエレミヤの無実の告白です。

エレミヤは神の審判の言葉を少しの割り引きもせず、その通り告げました。しかし、「わたしは、災いが速やかに来るようあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです」といって、エレミヤは自ら受けた嫌疑の理不尽さを神に訴えています。

エレミヤは、魂のみとり手として祈りや威嚇の言葉をもって神に仕えるべく、ただ神に対して服従が課せられていました。だから、エレミヤの嘆きと抗議が背信の民に向けられず、専ら神に向けられています。この点に注目する必要があります。不実と背信の中にある民と、この点について論争をしても 何の解決も与えられないことをエレミヤは知っています。魂のみとり手として、祈りや威嚇の言葉をもって神に仕えるべく、ただ神に対して服従が課せられていた状況の中で、エレミヤの唇から出る言葉や祈りを理解することができる存在は、ただ神だけでありました。

預言者の心の葛藤は他の人々には隠され見えません。それゆえ、民とその指導者たちは誤った外見にしたがって判断することになります。その判断は決して真実に基づいてのものでありえません。真実は神のみが知り給うのです。だからエレミヤは「わたしの唇から出たことはあなたの御前にあります」と告白します。それは、「ただ神の御前に」(コーラム・デオ)という信仰から出た告白です。

それゆえ、エレミヤは「災いの日」のため、神の下に避け所を求めます。この日に、神の前に耐ええるのは預言者なのか、それとも彼の敵対者なのか、決定が下されねばならないのです。そのとき何れが主の審きを受けることになるか、エレミヤには確信が持てず、17、18節の報復の祈りを祈ったという解釈がありますが、わたくしはこの解釈を取りません。エレミヤは確信の欠如から不安の中でこの報復のことばで祈りを結んだというのは、臨在の主への賛美で始まるこの嘆きの祈りに合致しません。預言者の言葉を拒む敵対者への二倍の報復を祈る、エレミヤのこの祈りは、神の言葉の真実に関わります。神の言葉を、真実をもって取り次いだ預言者が「災いの日」に、これを拒み迫害した者と一緒に裁かれれば、何処に神の言葉の真実が明らかにされることになるでしょうか。それゆえ、ヤハウェからの離反とヤハウェの言葉への冒涜的嘲笑という二重の罪に、倍する裁きをエレミヤは願います。

これは、何処までも不実の民のために執り成し祈ったエレミヤのこれまでの祈りと矛盾するものでありません。エレミヤは神の御前に立つ者として、神の言葉の真実が問われるとき、不実の民がその不真実の故に審かれ神の義が貫かれることを願います。それは、自分一人救われることを願う独善的な信仰の態度ではありません。あくまでも神の言葉の真実を願う、預言者の嘆きの祈りの究極の言葉であることを読み取ることが大切です。神がご自身の真実さに基づき、背く者に災いの審判が下される時、人は始めて神を真実に恐れ、悔い改めへその信仰が向かう、否、そうなって欲しいと言うエレミヤの願いはこの嘆きの祈りの中にも失われてはいません。

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