イザヤ書講解

58.イザヤ書54章1-10節『不妊の女よ、喜べ』

ここには、「喜び歌え、不妊の女よ」という言葉で始まる救いの約束が語られています。この告知を受けているのは、バビロンで捕囚の苦しみの中にある民です。イスラエルの民にとって、捕囚は、苦難と恥辱に満ちた、心の奥深くに傷を負う体験でありました。その深い苦しみを表現する表象として、第二イザヤは「不妊の女」という語を用いています。古代世界において、女は子を持つことによって神の祝福を実感し、また社会の中での確かな地位と生きるべき場所をもっていることを実感することができました。女にとって不妊は、夫に捨てられる原因にもなりえました。そういうことが当たり前のような時代、社会にあって、そのような者の苦難や恥辱に報いるためには、その者にこを与えるという転換が現実になされる必要があります。しかしそのことは人間には不可能、ここに深い悲しみの原因がありました。

第二イザヤは、今ここで、捕囚による恥辱、その時代の苦しみを、「不妊の女、子を産まなかった女」の苦しみとして描き、その苦しみからの解放を、神による転換としてもたらされることを告げています。その事実を、「歓声をあげ、喜び歌え」という言葉と共に告げています。

聖書の教えによれば、女が味わう産みの苦しみは、はじめから必然のものであったのではなく、罪の結果生じた神の与えた苦しみの一つですが、この苦しみさえ味わえない女は、もっと神に祝福されない者、夫や社会にとって歓迎できない呪われた存在のように考えられていたのです。

しかし、アブラハムに対する約束には、「不妊の女」(創世記11章30節)である彼の妻サライへの約束を含むものとして語られていました。ここで第二イザヤが指し示す神はそのような神ですし、そのような神としてのみ告げうる喜びのメッセージです。この神の救いのメッセージは、自ら解決できない、自分の力では立ち上がることのできない現実を前にした人間に向けて語られています。

喜び歌え、という呼びかけは、44章23節においては、

天よ、喜び歌え、主のなさったことを。
地の底よ、喜びの叫びをあげよ。
山々も、森とその木々も歓声をあげよ。
主はヤコブを贖い
イスラエルによって輝きを現された。

と、神がイスラエルに対してなされる救いに対し、被造物に歓声をあげるようにといわれています。しかしここではイスラエル自身が呼びかけられています。

ここに「不妊の女」と並んであげられている「産みの苦しみをしたことのない女」のようになった都エルサレムの嘆きを、哀歌1章1節は次のように語っています。

なにゆえ、独りで座っているのか
人に溢れていたこの都が。
やもめとなってしまったのか
多くの民の女王であったこの都が。
奴隷となってしまったのか
国々の姫君であったこの都が。

戦争で敗れ、国が荒らされ、捕囚にされるという体験は、女にとって、夫となるべき男が奪われるという現実をも意味していました。国を再興する力強い男性のいない、未来に希望をつなぐ共同の担い手となる夫のいない、子をもうける機会そのものを与えられない、その現実に茫然自失して「独りで座っている」エルサレムの悲しみを、哀歌はこのように歌っています。

それゆえ、第二イザヤの「喜び歌え、赴任の女よ」という呼びかけは、聴衆にとって厳しい逆接として響いたに違いありません。ヘブライ語のアカーラー(不妊の女)という語は、変化しない死滅したものという響きがあります。人は不妊の女に向かって、いかにして歓喜へと呼びかけることができるだろうか。それは、人が語る慰めとしては無意味で、残忍なことでありました。しかし、第二イザヤは、まさにその比喩を用いることによって、この躓きから民を立ち上がらせようとしています。なぜなら彼の聴衆は、「だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟る」(イザヤ書52章15節)という体験をする。第二イザヤは、そのような全く信じがたいことを告知しなければならないからです。

54章1節後半は、不妊の女、夫に捨てられた女は、多くの子供に恵まれるようになるという神の約束を語っています。そしてこのことは彼の聴衆にはもはや不可能なことと思えない確かさが与えられていました。それは礼拝における神をほめたたえる、次の言葉によって与えられていたからです。

弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に
民の自由な人々の列に返してくださる。
子のない女を家に返し
子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。(詩篇113編7-9節)

この詩篇を礼拝の中で共に唱和する聴衆は、不妊の女に与えられる慰めの言葉を、真実の言葉、主の誠実(ヘセド)として実現するという確証を、その信仰において十分得ることができたはずであるからです。

2節において、第二イザヤは、「広く取れ・・・広げ・・・伸ばせ」という呼びかけをしています。イスラエルの人たちは、捕囚の地にあってもそれなりの堅固な家に住んでいたと思われます。だから荒野時代のような天幕に実際住んでいたわけではありません。しかし、第二イザヤは、子孫増大の約束が大いに意味を持っていた古い時代を意識的に想起させるために、この語をあえて用いています。狭い天幕では住めなくなるほど子孫が増大する恵みが与えられることを約束しつつ、第二イザヤは、出エジプトにおける「土地の約束」(3節)にも言及しています。エジプトからの救助、解放には、土地の授与という大切な約束が含まれていたからです(出エジプト3章7-8節)。

ここで語られている女の苦難と恥辱は、自らの不道徳の故ではありません。子供にないことそれ自体が恥をもたらす、ということです。それは自ら負いきることのできない責任です。バビロン捕囚の民を襲った打撃もまたそのようなものでした。民はその降伏によって諸国の間で栄誉を失うことになりました。この希望のない恥の中で、「恐れるな」(5節)という呼びかけが発せられ、苦悩だけでなく恥をも拭い去るという救いの約束が発せられています。

5-6節における救済への転回は、1節以下の表象を取り上げています。ここには新しい救いの状態が強調されています。「あなたの造り主があなたの夫となられる」というゆるぎない失われることのない確かな救いが語られています。第二イザヤは、四つの主の名をあげて、その救いのゆるぎなさを強調し、「主はあなたの名を呼び」、この主は「どうして若いときの妻を見放せようか」と言っておられると告げ、決して見捨てないという主の約束のもとにイスラエルを立たせ、主のシャローム(平和)を語っています。

イスラエルは自らを胎の実を結ばない者、主に見捨てられた花嫁と考えたかもしれません。しかし主は、「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」(7節)といわれます。主が「激しく怒って顔を隠し」て見捨てた期間は、ほんの「わずかの間」「ひととき」ですが、「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」(8節)といって、主の慈しみ、解放の恵みの期間はいつまでも絶えることなく続くと語られています。

ノアの洪水の破局は、全人類と被造世界全体に及びましたが、この贖いは、主にとってそれに等しいと述べられています(9節)。ノアの洪水が一度限りの審判であったように、イスラエルの苦難と辱めも一度限りのもので、再びそのような怒りをもって責めることはないといわれます。

神の怒りは転回し、神は今やイスラエルにその憐れみを再び与え、その救いは不変のものとして与えられる。それが10節において永遠の「平和の契約」として結ばれると語られています。それは、詩篇46編3節の言葉を髣髴(ほうふつ)させるような言葉で語られています。

このベリート・シャローム(平和の契約)は、創世記8章22節に対応する、不変的な新しい救済です。しかし民に対する本来の救済は、神の助け、救助が表わされることですから、契約は救いを根拠づけるものではありません。それはむしろ神の救済を確証する意義を持っています。神の先行する救いによって成し遂げられた神と民との新しい関係が、契約という形で確証され、契約締結によって、神がその義務を負われることによって、不変のものとされるのであります。神がここで、イスラエルに対して、もはや怒らず、この怒りはもはや現さないと誓い、また神がその恵みはイスラエルから離れず、平和と救いがいつまでも続くと約束されるとき、この約束は歴史的現実をはるかに越えるものとして示されています。この約束は捕囚後のイスラエルにおいて実現されることはなかった、と思える時も、その現実をも越えて進みます。この約束は、キリストの成就をも越えて進みます。その意味で、この第二イザヤにおける中断のない救済の状態の約束は、歴史を越えるもの、あるいは歴史を通しての神の民の歩みをも越えるものとして指し示されています。不妊という人間的に希望なき状態にあるものすべてに、神にある永遠の「平和の契約」が結ばれている、その事実を信仰の目でいつも新しく確証する者に、神の慈しみの御手はそこにも及んでいるという希望の中に立たせます。その希望の想起の中で、「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」といわれる贖い主の言葉によって、わたしたちは慰めと励ましを受け、立ち上がることができるのです。その立ち上がるその行為そのものが、永遠の不変の救いの中にあることを表す信仰の行為としての意味を与えられているからです。

旧約聖書講解