エゼキエル書講解

29.エゼキエル書24章15-21節『エゼキエルの妻の死』

バビロンの地に捕囚とされたイスラエルの民は、激しい緊張の中で、エルサレム包囲開始の報に接し、バビロン軍との戦いがどういう結末を迎えるか固唾を飲んでその推移を見守っていました。そして、それがどのような結末を迎えるのか、確かな報せを期待していました。彼らは、バビロン軍の撤退や包囲の一時中止といったことで希望が高まった時など、一喜一憂して預言者の言葉を聞こうとしました。バビロン軍がエルサレムを包囲していた時、バビロン軍は、ファラオの軍隊がエジプトから進撃してきたとの報せを聞いてエルサレムから撤退しました。ゼデキヤは、確かなことが知りたくて、使いを遣わして、エレミヤに、「どうか我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」、と尋ねました(エレミヤ37:3)。その時エレミヤに臨んだ主の言葉は、エルサレムに下される災いに関するものでありました(エレミヤ37:7-10)。エレミヤは災いの預言者として、主から告げられる通りに語りました。

このエルサレム包囲と聖所破壊に関するエゼキエルの告知(エゼキエル書24章21節)は、1節の日付よりも後の前587年7月のバビロニアによるエルサレム破壊(ユダ王国の滅亡、第2回捕囚)に関するものであると見なすべきでしょう。

この時バビロンの地にあって、エゼキエルは、一切の希望を根絶する象徴行為によって、その包囲の開始の時の審きの告知者として立たされます。神によって直接引き起こされた打撃、それは、最愛の妻の突然死です。

エゼキエル書24章16,17節に記される、エゼキエルに告知された言葉は、預言者に来る恐るべき出来事でありました。しかし、この差し迫った打撃を、預言者は何の備えもなしに受けたのではありません。神はこの恐るべき出来事の中にも、簡単に異邦の破滅的な力に引渡したり、わけのわからない刑罰に服させたりしないで、しっかりとご自身のもとに束縛し、確かに彼の活動をこの時機に用いられる、ということを予め承知していたのです。だから彼は、この不可解な出来事を通して神の口であり続け、神の意思によって任命されていたことを確信していたのです(アイヒロット)。

しかし、それは、彼の「目の喜びを、一撃をもって取り去る。」(16節)妻の突然死に関するものである限り、エゼキエルにとって何の困難も動揺も覚えなかったというものでは、勿論ありません。「目の喜び」と同じ言葉の複数形、マフマッディームは哀歌2章4節とホセア書9章16節で若者や子供を指すのに用いられています。しかし、その場合も、裁きによって取り去られた者として、ある特別に愛された者のことを言おうとしています。「目の喜び」は、エゼキエルが妻によって得た特別な慰めと助けを示しています。

かつて、神は、アブラハムに対して、その子イサクを犠牲として捧げよと命じられました(創世記22章)。エゼキエルに対する神の告知は、それに似ています。アブラハムには、「あなたの息子、あなたの愛する独り子」と呼んで、その犠牲の重さに神の関心が注がれています。そこでアブラハムに求められたのは、信仰による服従でありました。そしてアブラハムは、その命令に対して、一言の口応えもせずに、従いました。

エゼキエルは、同じ信仰で、「目の喜び」として来た妻に加えられる「一撃」の出来事を受け入れるのです。この一撃を、病気の妻の死を突然知らされたと解する注解者の意見もありますが、ここにはそんなことは一言も述べられていません。

神の介入による出来事は、神の絶対的な主権と自由によってなされます。それに対して、なぜ、という理由づけをすることは、人間には許されていません。ここで預言者に神が求めたことは、この神の「一撃」に信仰の応答をすることです。

エゼキエルは、この「一撃」を、嘆くことさえ禁じられました。愛する妻の予期しない急死は、予め告知されていたとはいえ、エゼキエルを深い悲嘆に陥れただけでなく、周りの人々にも深刻な印象を与えることになりました。

しかし神は、「あなたは嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな。頭にターバンを巻き、足に靴を履きなさい。口ひげを覆うな。嘆きのパンを食べてはならない。」と、普通なら許される一切の嘆きの行為を禁じられたのであります。

エゼキエルが神の命令に従い、通常の悲嘆のしるしとなる行為を行うことに対して、周りの人々は、いっそう大きな驚きを覚えました(19節)。

このエゼキエルの異常な行動は、それが示している出来事を既に示し、捕囚民に不可避なこととを示すものです。「目の喜び」を取り去られた個人よりもはるかに激しく、ユダの家は神の打撃を受けようとしていました。ユダの家は神殿を目の喜びとし、誇りとあこがれの対象としていました。しかし、その本来の所有者である神が、この神殿を汚辱された形でバビロンに渡し、放棄されるのです。その絶望的な姿を示すべく、預言者は象徴行為をもって示すことが求められていたのです。

「わたしは、わたしの聖所を汚す。それはお前たちの誇る砦であり、目の喜び、心の慕うものであった。お前たちが残してきた息子、娘たちは、剣によって滅びる。」(21節)これが、神の意志として起こることを示し、「目の喜び」を失う悲しみに信仰をもって耐えることこそが救いにつながることを教えるのです。アブラハムの信仰を継承する者こそ、イスラエルにふさわしい信仰であるからです。

預言者は、自身の存在と妻、子たちの生きざま、死にざまを通して、神の御旨の告知者として立たされます。それがどんなに悲しむべき事柄で、涙を流すことさえ許されないようなことであっても、神の意志に服従することにおいて神の栄光を表す器として生きることが求められました。その道の是非を人間の判断で下すことはできません。

しかし、この人間の目にきびいしいと思えるエゼキエルに課せられた使命も、救い主の使命を覚える時、それもまた小さな神奉仕に見えます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6ー8)の御言葉から、エゼキエルに示された御心を見る時、神の偉大な救いの準備を見ることができるでしょう。

旧約聖書講解